■ 松本市の隣に位置する山形村はかつて高遠藩の飛び地でした。そのためでしょう、高遠の石工が彫ったとされる道祖神が村内に何体もあります。
この道祖神は巾が190cmで高さが110cmという横長の大きな自然石に彫られています。像の左側に本州高遠住石工四良右門兼氏作と彫ってあります。
若い女神のこの優しい表情、実に魅力的です。ふっくら美人ですね。高遠にこの像のモデルとなった若い娘さん、もしかしてこの石工の彼女がいたのかもしれません。手を肩にかけている隣の男神は石工自身がモデルかも、などと考えてみるのも楽しいものです。案外年配の石工の作だったりして・・・。
メモ)嘉永3(1850)年
■ 松本平以外の道祖神を取り上げるのは初めてです。諏訪の御柱のとき、諏訪大社下社秋宮の近くで見かけましたが、取り上げていませんから。
先日茅野市美術館へ藤森照信展を観に出かけた際、近くを路上観察していて見かけました。かなり摩耗していて(と決めつけていいものか、あるいは最初からあまり細かく彫ってなかったのかもしれません)、顔の表情は分かりません。恋情は感じませんが、つつましくてほのぼのとした雰囲気の道祖神です。
この素朴な道祖神、田舎の風景によく似合いそうです。
■ 松本市蟻ヶ崎、塩釜神社脇に立つ道祖神です。夕方の街中ウォーキングで見かけました。双体像の右側に文政六年癸羊五月、左側に天保十二年辛丑正月吉日と彫られていることの説明看板が道祖神の後ろにあります(支柱が写っています)。
調べてみると、文政六年は西暦1823年、天保12年は1841年です。着手した年と出来上がった年でしょう。江戸末期ですね。18年かかった、ということになりますか。なぜこんなに長い年月かかったのだろう、と思ってしまいますが、前稿で書いたように当時はこのくらいかかるのが当たり前のことだったのかもしれません。のんびり、ゆっくり・・・。着手年(だと思いますが)も彫ってある道祖神って珍しいのでは。左側の吉日の下の文字は蟻でしょうか、江戸時代はこの辺りは蟻ヶ崎村だったそうです。
右が男神で手に盃を持っています。左側の女神が持っているのは提子(ひさげ)。祝い事にお酒はつきものです。酒器の添彫りは安曇系に多いと手元の資料にあります。
にこやかな表情の道祖神ですね。捜せば身近なところで道祖神が見つかるかもしれません。