■ 松本市梓川で見かけた火の見櫓の屋根の頂部の飾り。やはり棒状の避雷針だけでは物足りないと思ったのだろう。制作者は焼き鳥かだんごでも食べながらそこに何か飾りたいと思ったのかもしれない。その気持ちがよく分かる。
矢羽根に加えて楕円をふたつ組み合わせた形の飾り、さらにその上に三日月状の飾りを付け、先端を尖らせている。この部分は鳥が急上昇しているようにも見える。
屋根の先端は制作者が火の見櫓のシビアな条件とは関係なく「遊ぶ」ことのできる唯一の部位なのかも知れない。
■ 松本市梓川で見かけた火の見櫓の屋根の頂部の飾り。やはり棒状の避雷針だけでは物足りないと思ったのだろう。制作者は焼き鳥かだんごでも食べながらそこに何か飾りたいと思ったのかもしれない。その気持ちがよく分かる。
矢羽根に加えて楕円をふたつ組み合わせた形の飾り、さらにその上に三日月状の飾りを付け、先端を尖らせている。この部分は鳥が急上昇しているようにも見える。
屋根の先端は制作者が火の見櫓のシビアな条件とは関係なく「遊ぶ」ことのできる唯一の部位なのかも知れない。
安曇野市三郷 撮影日100704
■ 木の柱に厚い木の板が吊るされている。これは何だろう・・・。隣には消火栓と消火ホースの収納ボックス、そして消火栓の表示板が立っている。状況から、この木板も半鐘と同じでは? と思った。
車を少し走らせて、運良く下の火の見櫓を見つけた。ここにも半鐘の下に木板が吊るされている! 半鐘と木板、共に叩いている(いた)のだろう。どんなときに板を叩いている(いた)のかは不明だが、使いわけのルールがあるのだろう。こんな火の見櫓、初めてみた。
029 安曇野市三郷 撮影日100704
やはり上の写真は半鐘代わりに叩いている(いた)木板に違いない。これも火の見櫓と見做していいだろう。
この木板で連想するのが魚板(画像検索で確認を)。禅寺で合図に打ち鳴らす文字通り魚の形をした木の板。これが木魚のルーツだとも聞く。魚は眠る時でも目を開いているという。修行する身ならば、心の目を魚のようにいつでも開いているように、という教えに因むのだとか。
寺の広い境内でも魚板を叩く音が聞こえるのであれば、木板を叩いて小さな集落に火災を知らせることもできたのだろう。
追記:その後この板は板木(ばんぎ)といい、地域の集会の合図として何年か前まで叩かれていたことが分かった。カフェ・バロで常連と思しき方からうかがった。感謝。
■ 通常は上の例のように蔵の地棟の小口には妻飾りが施される。既に書いたことを繰り返すが、水を吸って腐朽しやすい小口を保護するためだ。次第に鏝絵などで飾られるようになり、意匠的な意味合いが強まった。
下の写真は前稿で取り上げた火の見櫓(?)のすぐ近くで見かけた蔵。太鼓落としをした太い丸太の地棟、その小口がむき出しになっている。妻飾りが施されておらず、このように小口がむき出しのものは珍しいのではないか。これはこれで簡素で美しい。飾りの無い素形の美。
松本市梓川にて(100704)
壁が白くて明るいので露出を補正しないと地棟の小口がはっきり写らない。
■ 茂木健一郎氏と松岡正剛氏の対談となるとやはりテーマは「脳と日本人」。茂木氏は脳科学者だし、松岡氏は日本の伝統文化に関する知識が豊富な方だから。
よく対話はキャッチボールに喩えられるが、このふたりが相手に投げるボールは魔球、速球、変化球でキャッチしにくい。でもふたりはボールを後ろにそらすことなくキャッチして相手に投げ返している。こちらはその様子を傍で見ているという様だが、魔球は途中で消え、変化球は球筋が見えず、速球は全く見えない。ふたりの会話の内容は難しくてあまり理解できなかった。が、読んでいておもしろい指摘だなと思う箇所もあり興味深かった。
**(前略)枯山水の庭をつくった。岩や石、砂があるだけなのに、そこに水の流れや大きな世界を観じようとした。つまり、一番感じたいものを方法論的にそこから抜いたのですね。(後略)**
と松岡氏。 メモ)ここでは観と感を使い分けているのだろう。
**水を感じたいがゆえに、あえて水をなくしてしまった。不在をもって、かえって存在を際立たせるというのは認知科学的にも理にかなっている。(P118)**と茂木氏が返す。
**(前略)科学主義はいままでの文脈を全部押さえた上で、新しいものを付け加えることに拘泥しがちです。しかし、生命原理を考えれば繰り返しを恐れてはいけないということですね。**と茂木氏。
この発言に**しかも繰り返しはトートロジー(同義反復)じゃないんだよね。何かが時空的にも、意味的にもずれていく。そしてもうひとつは、たとえ形と時代が違っても、意味の読み替えによって繰り返しと解釈できることがいっぱいあるということです。たとえば、ヨーロッパの美術様式は、普通、ロマネスク→ゴシック→ルネサンス→バロックと発展したと考えられていますが、注意深く見ると、一部は完全な繰り返しなのです。**(P203)と松岡氏が返す。
これをうけての茂木氏の発言も興味深いのだが、引用ばかりになるので省略する。
**(前略)科学者も、島田雅彦や川上弘美になるべきなんですよ。迷ってばかりじゃいけません。(後略)**(P93)松岡氏のこの発言は、少し前の**(前略)ぼくは、文学というのは、そもそも断念から始まるんじゃないかと思っています。作家の保坂和志さん、島田雅彦さん、川上弘美さんと親しいのですが、文学者というのは、学者が言う意味でのウィズダムというものから解き放たれた人がいい文章を書いているように思います。**という茂木氏の発言を受けてのことだろう。
まさかふたりの対談に川上弘美さんが出てくるとは思わなかった。 メモ)松岡氏は「千夜千冊」で川上弘美さんの『センセイの鞄』を取り上げているが、あまり切れ味が良くない。松岡氏でも書評しにくいのかな。
相手がどんなボールを投げても受け取って投げ返す、ふたりの守備範囲の広さに拍手。