■ 今年読んだ本の中から印象に残った3冊を挙げる。
『江戸の坂 東京の坂』 横関英一/ちくま学芸文庫
著者の関口さんは仕事のかたわら長年江戸の坂、東京の坂について研究を続けてこられた方。切絵図などの古地図を調べ、坂に関する史料をあたるなどして、坂の所在地の特定を試み、呼び名の由来やその変遷などを詳細に研究した、その成果が収録されている。火の見櫓についてもこの位徹底的に調べ上げたら凄いだろうなと思う。大変な労作だ。
『日本人の論理構造』 板坂元/講談社現代新書
再読本 初読は1977年
どうせ短いいのちなら。
どうせ二人はこの世では花の咲かない枯れすすき。
どうせおいらは一人者。
どうせひろった恋だもの。
どうせ気まぐれ東京の夜の池袋。
例えば「どうせ」について著者はこのような例を示し、日本人の心情にぴったりするものらしく、流行歌に頻出度がきわめて高いと指摘する。そして、すべて人生に対する否定的な思想であり、あるいは絶望的な評価であるとし、**行きつくところは孤独感無常観の袋小路である。おそらく流行歌の作者は無意識のうちにこういう価値判断の様式をとり入れることによって、庶民の胸をゆさぶるのであろうが、これが何ともいえない共感を呼ぶところに日本らしさがあるのである。**とまとめている。
さらに、
「どうせ買うなら飛び切りいものにしよう」
「どうせ行くなら、思い切ってヨーロッパにでもするか」
「どうせやりかかったことだ、とことんまでやってやろう」
このような例を示し、**決断のしかたが論理的に大飛躍する点とそれまでの思考の過程と無関係におこなわれる点で、やはり思考放棄の一形式である。**と述べている。
さらに続けて **だが、マイナスの面ばかりがあるのではない。明治以来、このどうせの論理が成功した点も忘れてはならない。どうせやるなら一流のものを完璧なものをというのは、無理が通れば思いの外の成果をおさめることができる。(中略)その時の必要限度をはるかに超えたところに目標が置かれたのが、五年後、十年後に実を結んだ例は少なくない。戦後の復興も、最近のコンピューター熱も採算を無視して飛びついたと思われる点がなくもないのは、このどうせの論理の目が表に出た例と考えられる。**と考察している(49~52頁)。
どうせ の他に、なまじ、いっそ、せめて、さすが、しみじみ、などの言葉についても用例をいくつも示して日本人のものの考え方や心理を曖昧さを排除して的確に分析している。
『白きたおやかな峰』 北杜夫/新潮社
久しぶりに読み応えのある小説を読んだ。**なんであんな山に登りたがるのだ。たかが雪と氷のちょっとしたでっぱりじゃないか。なんでそんな真似をするのだ。もうみんなやめてくれ。**(291頁) 北杜夫の冷徹な眼が生んだ山岳小説の「白眉」。
年越し本は『楡家の人びと』 新潮文庫。北杜夫はこの長編小説を30代半ばで書いている。驚きだ。今これほどの力量のある作家っているのだろうか・・・。