■ 時の流れは早い。あっという間に今年もあと1ヶ月となった。今年を振り返るのはもうしばらく先にするが、11月18日に高野山参拝に出かけたことが大きな出来事だった。
菩提寺は真言宗の寺、その檀信徒総代を務めることなったのを機に空海について少し勉強してみようと、何冊か関連本を読んできた。
11月に読んだのは高野山参拝に出かける前に読んだ本、2冊。
『空海入門』加藤精一/角川ソフィア文庫
この国の思想、宗教に大きな足跡を残した空海の生涯(774年~835年)、思想を概観するのに適した1冊。 ただし、生涯はともかく、思想はおろか言葉の意味を理解することすら素養のない私には困難。
遣唐使船は今現在の小さな漁船ほどの大きさの船だが、その船で唐に渡るとき、4隻のうち2隻が沈没して、唐に流れ着いたのは空海と最澄が乗っていた2隻だけだったという事実をどう捉えたものか・・・、不思議というか、奇跡としか言いようがないように思う。
中国南端の福州に漂着した一行は地元の役人に疑われて上陸することができなかった。その際、遣唐大使の求めに応じて空海が書いた手紙により中国側は直ちに船の封を解いて、大使の来唐を長安に伝えたという。空海の格調高い文章に深い教養を読みとった役人が驚いたということだが、このエピソードだけでも空海の凄さが窺える。
空海を密教の正統な後継者と認めた高僧・恵果(けいか)がわずか8ヶ月後には入滅してしまう。その間に学ぶべきものをすべて学び終えたということだから、空海は天才としか言いようがない。留学生は20年間滞在することが定めだったとのことだが、空海は3年足らずで帰国の途につく。
帰国後空海は約3年、福岡に留め置かれる。**朝廷が無名の一留学僧空海の処遇を決めかねたのだと言われている。**と高村薫は説明しているが(信濃毎日新聞2014年8月14日付朝刊文化面)、本書で、著者は留学生の定めは20年の滞在で、勝手に短縮するのは大罪になり、朝廷が都に入ることを許可しなかったからだと記している。
その後・・・、空海は修行の場を高野山に開くことを嵯峨天皇に認められ、東寺も下賜される。唐で土木技術に関する知識も得ていた空海は今でも使われている讃岐の灌漑用ため池、満濃池を修理した技術者でもあったし、民衆の教育機関として日本初の私立学校を設立した教育者でもあった。 なんと充実した生涯であったことか。
『高野山』松長有慶/岩波新書
高野山の歴史や文化、建造物などを知るのに適した1冊。ガイドブックとして持参すればよかった。
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歴史に名を連ねる武将や名もなき庶民まで、供養塔で埋め尽くされた参道を御廟まで歩くという体験を得たことが今年一番の出来事だった、と括ってしまおう。
さて、師走。今年の読みおさめはどんな本にするか・・・。