透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

高野山へ

2014-11-14 | A 読書日記



■ 読了した
『高野山』松長有慶/岩波新書に次のような件(くだり)がある。**インド密教の祖である龍猛(りゅうみょう)菩薩、龍智(りゅうち)菩薩、金剛智三蔵、不空三蔵、恵果和尚と嫡々と相承されてきた正統な系譜の密教(『広付法伝』)が、はるか東海の果ての日本から訪ねてきた、それまでは無名の沙門に過ぎなかった空海に、ことごとく伝授されたのである。それは極めて異例なことであった。**(104、5頁)



また、今日再読した『空海入門』加藤晴一/角川ソフィア文庫にも同じ内容の記述がある。**空海は名もない東海の一青年にすぎない。ただ密教を求めて長安に来ただけである。ちょうどその時に、大唐皇帝の国師であり密教の正しい相承者である恵果が法を授ける人を探していた。その人が空海を見込んで弟子に加え、すべてを惜しみなく授け終わるや、入滅してしまった。**(39頁)何とも綱渡りのような伝承だ。

作家高村薫は運命だったと新聞連載記事「21世紀の空海」で書いている。**千人以上の門下のなかで両部の大法を相承したのが最終的に空海一人であったという事実は、まさに運命と呼ぶ以外にないだろう。**(信濃毎日新聞2014年7月3日付朝刊 文化面)

空海は774年に現在の香川県善通寺市の豪族の家に生まれた。18歳になって、都に一校あるのみだった大学に入学するも、俗世間を生きていくための手だてとしかうつらなかった大学教育に満足せず、親戚や友人たちの激しい反対を押し切って中退してしまう。高位高官につける超エリートコースを自らドロップアウトしてしまったのだ。

やがて遣唐船で入唐して(渡航の許可が下りるのもぎりぎりのタイミングだった)、上述のようになるのだが、4船のうち中国にたどりついたのは空海と最澄が乗った2船で、残りの2船は沈没してしまった。

『空海入門』で著者はこのことについて、**もし第一船と第二船が無事に着岸していなければ、平安初期以後のわが国の宗教界はずいぶん変わっていたに違いない。**(36頁)と書いている。

**さて、中国南端の福州に漂着した遣唐大使一行は、役人に疑われて上陸することができない始末であったが、大使に依頼された空海が手紙を書き、その手紙を一見した中国側はただちに船の封を解き、慰問の挨拶を述べ、日本国の大使が来唐したという報告を長安に伝えたという。大使にかわって筆をとった空海の力強い筆跡と格調高い文章によって一行へのもてなしが一変した。**(同書36頁)

密教思想を体系化した空海、天才としか評しようのない知の巨人。その充実した62年の人生には驚く。

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18日に高野山に行くことになっているので、それまでにこの2冊を読んでおきたいと思っていた。なんとか間に合った。十分とは言えないが、下調べはこれで終わり。