■ 前稿の石仏・石神が祀られた場所(山形村上竹田)のすぐ近くにこの集会所があるが、そこに板木が吊り下げられていることに気がついた。久しぶりに板木を見た。
訊けばもう叩くことはないそうだが、撤去しないでそのまま残してあるという。板の表面の様子から、繰り返し何回も何回も叩いたことが分かる。
板木を吊り下げてある火の見櫓もある。
上田市内にて
■ 前稿の石仏・石神が祀られた場所(山形村上竹田)のすぐ近くにこの集会所があるが、そこに板木が吊り下げられていることに気がついた。久しぶりに板木を見た。
訊けばもう叩くことはないそうだが、撤去しないでそのまま残してあるという。板の表面の様子から、繰り返し何回も何回も叩いたことが分かる。
板木を吊り下げてある火の見櫓もある。
上田市内にて
■ 奈良旅行で撮った集合写真を届けに山形村まで出かけた。その時この石神・石仏を見た。それぞれ別の場所にあったものをこの場所にまとめて祀ったと聞いた。
左端は火伏せの神様、秋葉大権現。東京の秋葉原という地名の由来も確かこの神様。その隣がこの庚申塔。右側に寛政十二庚申年、左側に十二月日 講中 と彫ってある。
この年は西暦で1800年。昭和55年(1980年)、大正9年(1920年)、明治は無くて、江戸末期の安政7年、万延元年(1860年)、そして寛政12年(1800年)と遡る。ここまでの庚申塔は見たが、更に遡ることができるかどうか・・・。
東筑摩郡山形村上竹田にて
細長い石碑の次は道祖神と二十三夜塔。どちらも負けず劣らず勢いのある文字を彫ってある。道祖神は裏面に彫り込んである文字から安政2年の建立と分かった。二十三夜塔は不明。右端はきちんと確認はしなかったが、たぶんこだま様。養蚕が盛んに行われていたころに祀られたものだろう。
このカテゴリーの記事はこれ以上内容が深まらない・・・。
■ 昨日(1月31日)、ある講座(全10講)の第3講、第4講を受講した。「都市の記憶を継承する―イタリアに学ぶまちづくり」と題した第4講(講師:民岡順朗氏)はなかなかおもしろかった。
配布された資料を参考に稿を起こす。
イタリアの街は「石造り」だから壊れないし、古いものが残って当然、と一般には思われているが、実はそうではなくて、ローマ人は古い街を埋めてその上に新しい街をつくってきたし、中世、新築建造物の石材を採るためにコロッセオを破壊したそうだ。
イタリア、いや他国の建築事情に疎いからこのようなことは知らなかった。
イタリアの古い街が残っている理由は「残ったのではなく、残した」からだという。建造物保全はルネッサンスから始まり、都市計画については高度成長期(6、70年代)に政策が転換されてからだという。講師の民岡氏はイタリアの徹底した修復主義には宗教・思想が関係しているだろうと指摘していた。
日本の街は木造で、地震もあるから壊れやすいし、造り替えて当然という考え方が一般的だ。火事と喧嘩は江戸の華と言われていたように、建替えは日常的に行われていたのではなかったか。伊勢神宮は20年毎に新築を繰り返してきた。だから新築は当然か。
民岡氏は日本の伝統構法(筆者注:工法とは概念が違う)は修理・修復に最適だと指摘していた。
日本の人口はこの先100年で半減するし、リフォームは安価で地球環境にも優しい。となるとイタリアのように修復主義に転換することになるのか・・・。
ここで民岡氏は日本人の根本思想として「無常」を挙げた。日本人の無常観は自然との共存、災害意識と深くかかわっているのだろう。
「無常観」が心根にある日本人は、イタリアのようにはいかないということで、多様な経済的・文化的文脈が重なり合った「都市の記憶を継承する」ことを結論としていた。民岡氏はその方法論として「新・旧の対比・共存」を挙げていた。
同様のことを私も考えていた。以下に拙ブログから再掲する。
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そう。あのオーストリアの郵便貯金局が出来たのが、この間読んだ本に出てたけど、1906年。東京中央郵便局より少し古いんだけど、現役だよね」
「そうですね。どうして日本って建築の寿命が短いんでしょうね、でも中央郵便局って長い方なんですよね」
「どうしてだろうね。まあ、美空ひばりの「川の流れのように」とかテレサ・テンの「時の流れに身をまかせ」だっけ?それにジュリーの「時の過ぎ行くままに」とか、歌にもあるように、人も世の中も常に変わるものだっていう、無常観・・・、があるからね、日本人の心には。それが建築にも反映しているのかも知れないな」
「建築も都市も常に変わっていくという考え方ですか」
「そう。なにもかも変わって当然という基本的な考え方。まあ伊勢神宮は例外だろうね。だから100年も200年も変わらないなんていう建築や都市なんてイメージできない、この国ではね。でもすべての建築がどんどん更新されていったら、東京なんて根無し草、漂流都市になるよね。だから、せめて東京駅と中央郵便局にはアースアンカーの役目を果たしてもらわないと」
「アースアンカーって、漂流止めってことですか?」
「そう、漂流止め。根無し草になるのを防ぐのに必要な最低限の建築。記憶を留める建築がやはり都市には必要なんだと・・・。でも本当はもっとそういう建築が点在していないと。今や東京駅の周りはガラスのタワーだらけ」
「そうですね」
「ガラスの建築って歴史を留めることが出来ないと思うんだよ」
「歴史を留める・・・」
「そう、以前ブログに書いたことがあるけれど、石やレンガなんかには、記憶力がある。歴史を記憶することができる材料。コンクリートはどうかな」
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(20090314 過去ログ)
こんな記事も書いている。以下に再掲する。
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この国の街並みの魅力を考える時はこの混沌とした状態を前提とせざるを得ない。ならば、せめて大正から昭和初期、戦前、そして戦後まもなく建てられた古い建築も共存する、つまり何層かの歴史の重なりが見られるような街並みに、魅力を見出そうという考え方があるのではないか。
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(20091006)
偶々民岡氏と同じことを考えていたが、この国の都市の現状を踏まえた、現実的な結論だと思う。
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民岡氏は最後に「過去」を背景にした「新しいもの」は映える、として重厚な蔵をブティックに「レスタウロ」した事例を紹介して、カッコいい、絵になる、お洒落という評価になるとした。
2013年9月に行った鎌倉のこのレストランは古い住宅に現代的なデザインを組み込んだお洒落な店で、この一事例だった。
過去を背景にした現代は映えるがその逆、現代を背景にした過去は落ち着かないし、しっくりこないとして現代的な高僧ビルを背景にした神社の写真を示していた。興味深い指摘だと思う。
「過去に組み込まれた現代」、「現代に組み込まれた過去」 私の路上観察の新たな視点が明確になった。
奈良市白毫寺町の火の見櫓
■ 先日奈良市内で火の見櫓を2基見たが、内1基は櫓の平面が台形だった。上の写真で下段の水平部材を目で追うとそのことが分かる。手前の丸鋼の梯子段が台形の上底(平行2辺の短辺)になっている。この形を見て、以前 長野県は立科町でもやはり台形の火の見櫓を見たことを思い出した。
北佐久郡立科町の火の見櫓
一番上の梯子段のところを見ると櫓の平面が台形であることが分かる。 奈良と長野で同じ構成で造られた火の見櫓を見たことになる。偶々同じ形になったということだろうか。台形の火の見櫓は関西方面では散見されるそうで、標準的な形なのかもしれない。
構造的なバランスということから見てこの形はどうなんだろう。
奈良市の火の見櫓(左)と立科町の火の見櫓(右)
よく見ると奈良の櫓は水平部材のところに必ず梯子段が来るようにしてあるが、立科の櫓の場合は両部材がずれているところがある。構造的には一致している方が好ましいだろう。
平面が台形ということは同じでも見張り台や屋根のデザインは全く違う。火の見櫓は十基十色だ。