透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

「まとまりの景観デザイン」

2015-02-11 | A 読書日記

 『まとまりの景観デザイン 形の規制誘導から関係性の作法へ』 小浦久子/学芸出版社 読了。

著者の研究論文をベースにしたものだろう。まえがきは論文の梗概のようなもので、本書も「はじめに」を精読すれば、著者の景観に関する問題意識も、問題の解決への見解というかみちすじも分かる。

以下、「はじめに」をもとに稿を書きたい。

景観はまちの姿で、まちを構成する要素相互の関係から説明されるとし、景観の計画は構成要素とその関係性のデザインだと著者は書いている。関係性はサブタイトルにもあるように、まとまりとともに本書のキーワードだ。

景観にはまちの歴史や地形との呼応といったコンテクスト(文脈)だけでなく、経済活動や暮らしの文化が反映されていて、このような背景をも踏まえなければならないと指摘している。
工学系の研究でありながらこのような模糊とした領域まで含めて考察しなければならないことに、景観に関わる要素が多様なこと、そして景観の難しさが表れている。

歴史的に見ればまちは空間秩序の解体と再構築を繰り返してきたことが分かるが、今日の経済的、文化的選択はまちのコンテクストを継承していない、と問題点指摘している。その一方で、今なお地形風土の制約、地域に限定された材料、集まって暮らすための相互の配慮など、その地域で継続的に、安全に暮らすための空間秩序がある集落もあることも指摘している。

なるほど確かに近在のまちに見られる宅地開発などには、まちを構成している既存の要素との関係性を無視したものが少なくない。結果、景観上の秩序が乱れる。

**景観をとらえることは、まちのあり方や地域環境の特徴をとらえることであり、その計画は都市を構成する様々な計画に対して持続可能な地域環境のあり方を示す可能性を持つ。そこにふつうのまちの景観まちづくりの意味がある。
景観のまとまりから、まちの空間構成を理解し、景観を計画することにより、地域の環境資源や空間コンテクストにもとづき空間を構成する道や建築物の関係性をデザインする。そこにふつうのまちの変化を前提とした景観まちづくりをつなぐ計画の可能性がある。 **(6頁)と説いている。

このようないわば景観計画に関する出発点とも思われる理論を実践の場にまで落とし込むことにはいくつも越えなければならないハードルが並んでいる。やはり景観は難しい。


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― 火の見櫓の添え束

2015-02-11 | A 火の見櫓っておもしろい

 先日穂高まで所用で出かけた。その際、安曇野のヤグラー・のぶさんがブログ「狛犬を巡る火の見ヤグラーな日々」で紹介していた火の見櫓の添え束(@安曇野市穂高牧)を見てきた。



ゴミステーションの左に立っているのが火の見櫓の添え束(*1)。

花崗岩の柱で高さは人の背丈くらい。昭和三十二年十一月建之という刻字がなんとか読める。安曇野には花崗岩を用いた道祖神も多いが花崗岩は風化しやすいので、損耗しているものが少なくない。



この場所に元々3本柱の火の見櫓が立っていて、その柱脚を固定するための添え束で、3本の内、2本は撤去されてこの1本だけが残ったとのこと。ボルトを貫通させるための孔が2つある。

火の見櫓の柱脚をこのように添え束で固定している事例として長野市小柴見の火の見櫓がある。


昭和16年建設





石造の添え束にボルトを貫通させて、柱材の山形鋼(アングル)にひっかけて留めている様子が分かる。同様の事例は北安曇郡池田町にもある。それが下の写真。





鋼製の火の見櫓の柱脚を固定するために、このような添え束が必要なのかどうか。なぜこのような方法にしたのかは不明。コンクリートの塊状基礎に台柱の刻字が埋もれていることから、コンクリート基礎は後施工と判断できるが。

さて、添え束を用いている事例としてこれを挙げないわけにはいかない。大町市美麻(旧美麻村)の木造の火の見櫓。私の火の見櫓巡りはここから始まった。


(移設前、100504撮影)



3本の添え束のうち1本は木のまま、2本は石に替えられている。

さて、穂高の添え束だが、ここに立っていた火の見櫓は木製だったのか、それとも鋼製だったのか・・・。

昭和32年という建設年から判断すれば鋼製とするのが妥当のように思われる。昭和30年代に鋼製の火の見櫓が盛んに建てられた。

だが、添え束を使った鋼製櫓は稀だろうし。仮に使ったとしてもあくまでも補助的なものであって、高さもそれ程必要ないことなどから、人の背丈もある添え束を用いた穂高の火の見櫓は木造であったと考えたいが・・・。ボルト貫通孔の大きさもこの判断を補強するように思われる。鋼製の櫓ならボルトはもっと細いものを使ったのではないか、だとすれば孔はもっと小さいのでは。

木造の火の見櫓が前から立っていて、添え束を木から石に替えた年が昭和32年で、その年を刻んだということはないだろうか。


美麻では移設の際、その年を刻んだ石柱を使っている。

今なおここに木造の火の見櫓が残されていたとすれば、素晴らしい景観要素になり得ただろうと、のぶさんが書いているが、全く同感。北アルプスを背景に凛と立つ木造の火の見櫓・・・。

ここの火の見櫓の立ち姿を写した写真が見つかるといいのだが・・・。


*1 のぶさんのブログに掲載されている資料の呼称に倣って台柱としていたが、添え束に改めた。2023.05.26 踏み台という言葉があるが、台の上に火の見櫓を載せるようにして建てているわけではない。火の見櫓に添えて設置している束(短い柱の意)とする方が状態を的確に表していると判断したので。