■ 『大王から天皇へ』日本の歴史03 熊谷公男/講談社 の第五章「律令国家への歩み」に出てくる壬申の乱に関する記述を読み返した。先日聴いた関裕二氏の講演「なぜ天武天皇は松本に副都を築こうとしたのか」に壬申の乱が出てきたので、その復習(とかなんとか )。
**大海人方の勝因は、なんといってもその的確で迅速な戦略にあったといってよい。大海人自身が吉野を発つにさきだって、美濃に使者を派遣して徴兵と不破道の閉鎖を命じたことをはじめてとして、大海人方が東国の兵力を一手に動員し、近江方の徴兵を不可能にしたことは、乱の帰趨(きすう)に決定的な意味をもった。**(332頁)
分厚いこの本を漫然と読んでいると「大海人方が東国の兵力を一手に動員し」という下りは読み逃してしまうが、このことについては講演会で配布された資料に**天武天皇が担ぎ上げられるきっかけは、壬申の乱(672)でしたが、この時勝てるなずのない天武(大海人皇子)を応援したのが東国でした。信濃からも兵が向かったようです。これまで、古代史に占める東国の影響力は小さいと信られてきましたが、ヤマト建国時の纏向(まきむく)遺跡に集まった土器は、東国の物が半数を超えていて、ここに、これまで語られることのなかった、古代史の真相が隠されています。(後略)**とある。
古代史はジグソーパズルで少ししかないピースを並べて、その完成図をイメージするようなもの。古代史に関する考え方、古代史観の違いによって、その図はかなり違ったものになる。僕たちは複数の図を併せ見ることで、その違いに気がつき、歴史に興味が湧くことになる。
古代史上最大の内乱であった壬申の乱に松本辺りからも出兵していたなんて。額田王と天智天皇、大海人皇の三人が三角関係にあったなどという俗っぽい話もあって、それが壬申の乱の遠因だなどという説もあるなんて・・・。
**「紫草(むらさき)の 匂へる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに われ恋ひめやも」(あでやかなあなたが憎かったならば、人妻だというのに恋をするでしょうか)** 大海人皇子 『大王から天皇へ』(322頁)
少年老い易く学成り難し 実感!