■ 先月(11月29日)松本市内で行われた歴史作家・関裕二さんの講演を聴いた(過去ログ)。演題は「なぜ天武天皇は松本に副都を築こうとしたのか」、副題は信州から見つめ直すヤマト(日本)の正体。
関さんは講演の中で壬申の乱(672年)に勝利した大海人皇子(のちの天武天皇)が松本副都計画を構想したことに触れた。壬申の乱では松本あたりからも大海人軍に加勢した兵力があったことも講演で知った。壬申の乱については、辛うじて教科書的な知識があるだけ。
ということで『壬申の乱 天皇誕生の神話と史実』遠山美都男/中公新書を読んでみた。なるほど、この本にも**桑名から東国に向けて派遣された使いが兵力の動員を行なった範囲は、東山道は美濃のとなりの信濃あたりまで、東海道は尾張に接する三河・遠江あたりまであったと考えられるが、(後略)**(177頁)という記述がある。
以下読書録。
壬申の乱の理解は、この内乱に勝利した天武天皇とその子孫がまとめた「勝者の歴史の日本書記」によるものだと著者は指摘し、この本のねらいを**壬申の乱での勝者・敗者双方のいい分をできるだけ公平に聞き取り、古代最大の内乱といわれたこの戦争の実態を再検証することにあります。**(まえがき)と書いている。
この本の章立ては次の通りだが、第Ⅰ章の総論を読むだけでも良いと思う。この章に著者が壬申の乱をどのように捉えているのか、その概要がきっちり書かれているから。第Ⅱ章以降の詳論については、歴史にもともと興味があり、かなりの知識がある人向けだろう。
Ⅰ 近江大津宮、その日
Ⅱ 大海人をめぐる群像
Ⅲ 内乱の発生と展開
Ⅳ 内乱の拡大と終焉
**天智は、世代・年齢重視の王位継承から特殊な血統をもった皇子による王位継承への転換を構想し、それを実現するために自分と大海人の血を引く皇子の誕生を成長をを願っていたのではないか。**(11頁)
**大友擁立とはたんなる我が子への情愛といった個人的心情に発するものではなく、天智が王位継承の転換を期して考え出した構想のいわゆる修正案だったということになる。**(13頁)
**壬申の乱とは、我が子・大友かわいさに目のくらんだ天智の死後に起きた天智には思いもよらなかった誤算や破綻だったのではい。大海人の土壇場での裏切りはもろん予想外だったが、天智の目が永遠に閉じられようとする寸前、その両眼は内乱の輪郭をしっかりと描き、それに対する指示もあたえていたのである。**(39頁)
著者は次のように壬申の乱を総括している。
**壬申の乱とは、「女帝」倭姫王の存在なくしては起こりえない性質の戦争であったのであり、倭姫王の譲位をうながして即位するために、天武・大友の双方がいわば対等の立場で戦った戦争でした。**(278頁)
そして、天武が王位継承の権利を持っており、壬申の乱に勝つべくして勝ったというのが、勝者の論理に基づいて書かれた日本書記の通俗的な理解で、実はそれは誤った事実認識であると。日本書記は内乱の核心を巧みに隠蔽していると。
壬申の乱については松本清張も書いている。『壬申の乱 清張通史(5)』講談社文庫を次に読んでみよう。