■ 数日前、新聞に折り込みチラシと共に来年(2018年)のカレンダーが入っていた。A2サイズよりひと回り小さいサイズでカレンダーの他に長野県地図(77全市町村の位置関係が分かりやすくて便利)や長野県内各地の民俗文化財(重要有形文化財7件、重要無形文化財10件)の写真、それから県歌「信濃の国」の歌詞が載っている。
「信濃の国」は全国で一番よく県民に知られている県歌だという。1899年(明治32年)に浅井 洌(きよし)によって作詞され、翌1900年に北村季春(すえはる)によって作曲された(いかにも知っていたかのように書いているがつくられた年までは知らなかった)。
以下にわか調べで得た情報。
100年以上も前につくられた「信濃の国」が県歌に制定されたのは1968年で、来年は制定50周年を迎える。2015年の8、9月にこの県歌の認知度を調査したところ、一番から六番まで全て歌える人が18.6%、一番だけなら歌える人が60.8%という結果だったそうだ。
私も小学校でこの県歌の難しい歌詞をを一番から六番まで覚えた。そして学校行事でよく歌った。
ネットで次のような情報を得た。**明治二十七・二十八年の日清戦争のあと、日本中が戦勝気分でいつまでも軍歌をうたい、学校においても唱歌の教材として軍歌をうたわせていたことを、音楽教育に熱心であった第五代長野師範校長で、信濃教育会長を兼務していた本県上田藩出身の正木直太郎が大変心配し、同三十一年新たに地理歴史をとり入れた唱歌教材を作るべく師範の浅井・内田両教諭に依頼した。その結果六曲が出来、そのうちの一つが「信濃の国」であった。**(県歌制定時の責任者・太田今朝秋氏の文章から引用)
作曲をした北村季春は明治学院で島崎藤村と同級だったそうだが、中途退学して東京音楽学校に入学したという。で、その時の校長は伊沢修二という人で高遠藩出身だったそうだ。このことも太田氏の文章の中にある。
太田氏は同文章に長野県は明治初期に時の政府が独自の判断で筑摩県(県庁所在地:松本)を長野県(同:長野)に併合させてできた県で、その後分県運動が起っていたので「信濃の国は一つ」という大原則に立って作詞し、歌詞の中に長野という字句を使わないように配慮したことも記している。
政府が勝手に筑摩県を長野県に併合することを決め、実行させてしまったが、分裂の争いはしないようにというメッセージを込めたということだ。
余談だが、県名を使って長野大学とはしないで信州大学という名称にしたのも同様の理由だとも聞く。
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「信濃の国」一番
信濃の国は十州に 境連ぬる国にして
聳ゆる山はいや高く 流るる川はいや遠し
松本伊那佐久善光寺 四つの平は肥沃の地
海こそなけれ物さわに 万ず足らわぬ事ぞなき
今、子どもたちはこの一番の歌詞で「境連ぬる」を「境連なる」と歌っているのでは。先生方には子どもたちに歌詞を正確に教えて欲しいと思う。
五番
旭将軍義仲も 仁科の五郎信盛も
春台太宰先生も 象山佐久間先生も
皆此国の人にして 文武の誉たぐいなく
山と聳えて世に仰ぎ 川と流れて名は尽ず