透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

― コンクリート製の火の見櫓

2010-06-13 | A 火の見櫓っておもしろい

 

 休日。今日は部屋にこもって読書しようと、書棚から取り出したのが『路上探検隊 奥の細道をゆく』。 路上観察学会の会員が山形県まで出かけていって採集した「あれこれ」を収録した本。91年に読んでいる。

表紙の写真は赤瀬川原平さんが採集した「ポストになりたい狸」。赤瀬川さんはこの狸をポストに化けたつもりなんだろうと見る。そして、もしかして赤いポストはちゃんと化けたお母さん狸ではないか、と見る。この想像力ってすごい、やはり作家だ。

パラパラとページをめくっていって、「なぜ山形の火の見櫓はコンクリート製なのか」という見出しが目に入った。藤森照信さんの記事だ。藤森さんも全国の火の見櫓に注目してきたという。本文に**戦前のものは見かけるとタクシーを停めてでも写真をとるようにしてきた。**とある。

その藤森さんがコンクリート製の火の見櫓をみつけた。鶴岡市内で路上観察したコンクリート製の火の見櫓の写真が載っている。

**だいたい火の見というのは全国どこでも木造から鉄骨造へとダイレクトに進化するのがふつうで、コンクリート造という脇道を経過すること自体が異例なのである。**とする藤森さん。

なぜコンクリート製なのか、その理由については名探偵も分からない・・・。


 


024 025 デザインのセンス

2010-06-13 | A 火の見櫓っておもしろい


024 山形村中大池 撮影日100612(現存しない)


025 塩尻市洗馬(小曽部) 100612

 2基の火の見櫓を比べてみると随分印象が違う。

上の山形村の火の見櫓は実に力強く堂々としている。櫓は下から上へと次第に絞り込まれていくが、その形が美しい。4隅のアングル材がなめらかで美しい曲線を描いて上方に伸びている。それを中間部の踊り場が束ね、視覚的にぎゅっと締めている。櫓の頂部をまとめる屋根もこの力強い櫓に相応しく存在感がある。

下は上の火の見櫓と比べると、構造的には少し貧弱な印象を受ける。一番違うのは柱脚部のデザイン。上は4本の脚の踏ん張り方がぴたりと決まっていて安定感があるが、下のは櫓の荷重をしっかり受け止めているということが視覚的に伝わってこない。何十年も風に耐え、地震にも耐えてきたという事実が、構造的に問題はないということの証左なのだが。

*****

超高層ビルは高度な解析によって構造的な安全性が検証されている。でも視覚的に不安を覚えるようなデザインのビルも目にする。見た目に不安定な形は高度な構造解析が可能にしたとも言えるが、やはり基本は視覚的に安心感を与えるデザインをすることではないだろうか。 

上の火の見櫓から東京タワーを連想した。東京タワーは荷重(横方向からの風荷重)によって生じる応力に忠実に対応した形という印象だが・・・。                   


 

 


休日の午後

2010-06-13 | A あれこれ

「こんにちは、お久ぶりです」
「やあ、元気?」
「あ、はい。このカフェ、私も知ってました。前に一度お友達と来たことがことがあります。いいですよね、ここ。テラスの席だと涼しいですね」
「そうだね」
「桜の花見ができたカフェも素敵でしたけど」

「チーズケーキおいしそう。私、コーヒーとチーズケーキにしようかな。U1さん東京に行ってきたんですね、ルーシー・リー展観てきたんですか、いいなぁ」
「ブログ読んだね。ルーシー・リー展は良かった・・・、とにかくきれいなんだよ。特に細かな線文を入れた小ぶりの作品がよかったな」
「陶芸って私も好きなんです。行きたかったな。昨日、書店で「芸術新潮」を見ました」
ルーシー・リーの特集号が出てるね。非常に繊細な感性の持ち主という感じだった」

「やはりそうでした? 小柄な女性ですね。優しそうな雰囲気」
「作品には人柄が出るね」
「文は人なり、っていうけど、芸術作品すべてに当て嵌まる?」
「そう思うよ。人はみんな自分がかわいいから、作品に自分を投影しようとしてる。もうひとりの自分を探しているなんて言えば大げさだけど」

「自分探しですか・・・」
「そう、恋愛ももうひとりの自分探し」
「え~、そうなんですか。ところでU1さん火の見櫓に恋しちゃってますね」
「いや、火の見に恋しても、ね。でも火の見ってみんなちがって、みんないいんだよね」
みんなちがって、みんないいって、金子みすゞでしたっけ」
「? あ、そう。「わたしと小鳥とすずと」だっけ?」

「ええ。私好きですよ、金子みすゞの詩。ところで、火の見櫓っておもしろいですか? 私には分からないな・・・」
「そう? 消えつつあるものの、何だろう・・・、哀愁かな」
「新しくつくられることってもうないんですか?」
「ないだろうね、もう役目を終わっているからね、消えていくだけ」
「なんだか寂しい・・・」

「そこに惹かれているのかも。それに火の見にも人柄が出ているからね」
「人柄が、ですか? 私にはわからないな。あ、風が涼しい」
「水を張った田んぼを渡ってくるから」
「有明山がシルエットになって田んぼに写ってきれい」
「昔ばなしの絵本に出てきそうな形してるね。朝は常念、日暮れは有明山」
「あ、それいいですね、なるほど、です」
*****

「これから、どうする?」
「私、今日は買い物してから帰ります。また誘ってください」
「そう、じゃ今度は暑気払いしよう」


「小布施 まちづくりの奇跡」

2010-06-11 | A 読書日記



 小布施は長野市の北に位置する小さな町だ。町のHPによると人口はおよそ1万2千人、役場を中心とする半径2kmの円内にほとんどの集落が収まるという。

修景によって景観を整え、魅力的な町をつくりだした結果、毎年120万人もの観光客が訪れている。

『小布施 まちづくりの奇跡』新潮新書は小布施のまちづくりの経緯と現状のレポート。著者の川向正人氏は東京理科大学・小布施まちづくり研究所所長。

街並み保存は建築の「外」の保存に過ぎず、「内」との関係が断たれているから映画のセットのようでそこに生活感が無い。

東京の表参道には個性的な建築が並ぶが、どれも自己完結的なデザインで隣の建築との関係が考慮されていない(デザインされていない)。ケヤキ並木がかろうじて街並みを秩序立てている。ケヤキ並木が無かったら魅力の乏しい街並みになっているだろう・・・(この具体例は本書には出てこない)。

川向氏は小布施のまちづくりのポイントを建築の「内」と「外」をつなぐ「中間領域のデザイン」と「建築と建築の間のデザイン」がきちんとなされていることだと明快に指摘している。

高井鴻山、宮本忠長、市村郁夫、そして環境意識の高い一般住民。小布施町は人に恵まれた。

昨日購入、本日読了。






023 これは・・・

2010-06-10 | A 火の見櫓っておもしろい


023

 塩尻市片丘で見かけた火の見櫓。シンプルなデザイン。高さは4メートルくらい。櫓の下半分が植物に覆われてしまっている。この様子から現在使われていないことが分かる。かつては年に何回も打鐘されていただろうに・・・。

使わなくなっても手入れはして欲しいな、と勝手に思う。続けて書きたいことがあるが控えておく。

それにしても火の見櫓ってあちこちにあるものだ。長野県には火の見櫓が多いらしい。まだまだユニークなデザインのものが見つかりそうな気がする。

火の見櫓の路上観察は続く・・・。


022 火の見櫓いろいろ

2010-06-10 | A 火の見櫓っておもしろい

      
022 塩尻市片丘

 用事を済ませて自宅に帰る途中でこの火の見櫓を見かけた。

カーブミラーと比べると火の見櫓のおよその大きさがわかる。そう、高さは3メートルもない。この火の見櫓は小さいが故に却って存在感があった。なかなか立派な半鐘が吊るされている。

それにしても火の見櫓はいろいろだ。


 


021 火の見櫓は不要か

2010-06-10 | A 火の見櫓っておもしろい


021 山形村上竹田 

 長野県内でも「平成の大合併」で多くの市町村が合併したが、松本市に隣接する山形村は自立の道を選択した。村の西側は連なる里山で縁どられていて、昔からある集落がその山際に点在し、火の見櫓が各集落内の生活道路の傍らなどに立っている。

この火の見櫓はそれほど大きくはないが堂々としていて存在感がある。屋根や見張り台、櫓のバランスがよいことや屋根が上方に力強く伸びていくかのような形をしていること、櫓の荷重を踏ん張って支えていることが視覚的にわかるような脚のデザイン(外側に反っていればもっとよいが)など、その理由をいくつか挙げることができる。

火の見櫓の高さや形を規定する法律などないだろうから、製作者(制作者とすべきか)の美的センス、構造的センスによってデザインが決められたのだろう。

残念に思うのは山形村では10年以上も前から半鐘をたたかなくなくなってしまったことだ。今では消火用ホースを干すくらいしか使い道がない。火の見櫓は不要だ、撤去せよなどという声が起こらないよう切に願う。

火の見櫓は地域を愛する地域住民の心の象徴なのだから・・・。  


 


すっぴん魂

2010-06-07 | A 読書日記


■ ムロイさん(のエッセイ)が好き。「すっぴん魂7」の文庫が出ていた。手元には「すっぴん魂4」(←過去ログ)まである。5、6を入手しなくては・・・。

ムロイさんの身辺にはよく「事件」が起きる。「防犯カメラは何を見た!?」などというタイトルはムロイ的火曜サスペンス劇場な雰囲気ではないか。霊安室に据えられた防犯カメラが見たものとは・・・。

**ギョッとなって立ち上がり、畳を俯瞰して、さらに二度驚いた。何とそのカビは、まるで事故現場で倒れた人間をチョークでなぞったみたいな様子で生えていた。**「嘘だろ!?カビ男殿」より引用。

ムロイさん家(ち)の客間の畳になぜ人型にカビが生えたのか。そのワケを知りたい方は書店で本書を立ち読みして下さい。

「ありがとう、おふくろの味」を読んだときは涙が出た。**「ムロイさん、実はお店、あと二週間で閉めちゃうの。永いこと、ありがとうね」(中略)「ウへッ・・・・、そ・・・・ん・・・・なぁ」**

長谷川義史さんのイラスト(写真右)も好き。ムロイさんのエッセイの雰囲気にぴったりだ。

週刊文春に連載中のエッセイをまとめた本。隙間時間で読了した。

「にほん語観察ノート」

2010-06-05 | A 読書日記



 日本語を観察すれば日本人の性格や日本の文化が見えてくる。

『にほん語観察ノート』井上ひさし/中公文庫 読了。

井上ひさしが政治家やスポーツ選手、役人らの言葉を観察し、その背後に見える日本社会について時には鋭く、時には軽妙に綴ったエッセイ集。

*****



『私家版日本語文法』新潮社はおよそ30年前に読んだ日本語の「教科書」。

井上ひさしといえば「ひょっこりひょうたん島」。個性豊かな人物が何人も登場する人形劇を子どもの頃よく観たものだ。ドン・ガバチョ、トラヒゲ、博士、サンデー先生そしてライオン。なつかしい。

 


わかりやすいということ

2010-06-03 | A あれこれ



 国立新美術館の空間構成は単純明快だ。行きたい展示室がエントランスホール(3層吹き抜けのアトリウム)で簡単に分かる構成になっている。不特定多数が利用する大型の公共施設はやはり分かりやすいことが重要だ。この「新美」以上に分かりやすい美術館を私は知らない。サインも大きく、設置位置も適切で分かりやすい。

オープン直後、例えば「トイレ」のような手書きの案内があちこちに張ってある施設も中にはある。サインが小さくて分かりにくい場合もあるが、平面計画に問題があるとしか思えないようなこともある。

「新美」の場合、大胆な空間構成が功を奏した、といえるだろう。

*****

「新美」には世界的に有名な椅子が何種類もある。それらの椅子を紹介する説明板が設置されたと聞いて気になっていたが、展示室の奥の休憩コーナーでニューヨーク近代美術館やパリのポンピドゥー・センターにも置かれているPK80というベンチの説明板を見かけた。

50年以上も前のデザインとはとても思えない。やはり優れたデザインはジャンルを問わずいつまでも新鮮、古びることがない。




「おんぶで恋しい山想う」

2010-06-02 | A 読書日記



 この本の著者のエッセイを初めて新聞で読んだのがいつ頃のことか、記憶は曖昧だが、読了後、いい文章を書く人だなと思ったことははっきり覚えている。

投稿者の氏名と共に載っていた年齢が私と同じだったことから、もしかしてと、高校の同窓会名簿でその名前を捜してみた。名簿に名前が載っていた。やはりM(旧姓)さんだった。

収録されているエッセイの内容についてはここでは触れない。日々の出来事を単に表層的に綴ったものでは決してなく、そのときの心模様までも描いている。

読み終えて、私の心は少しだけ秋色に染まった、と意味不明な感想だけ書いておく。


ブックレビュー 1005

2010-06-01 | A ブックレビュー



 5月の本のレビュー。読了本は4冊。

『パスタマシーンの幽霊』川上弘美/マガジンハウス  雑誌「クウネル」に連載中の短篇を収録する2冊目の本。

最近電子書籍のことが話題になる。リアルなものとしての紙の本と画面上のバーチャルな本とは明らかに違う。頁をめくるときの手触り、かすかな音、帯、しおり・・・。川上弘美の小説、輪郭の曖昧な世界は紙の本が似合う。

『昆虫 驚異の微小脳』水波 誠/中公新書 なるほど!な実験によって実証される昆虫の微小脳の驚くべき能力。

『火の見櫓暮情』内藤昌康/春夏秋冬叢書 火の見櫓には人を惹きつける何かが潜んでいる。

『日本語作文術』野内良三/中公新書 こちらの考えていることが正確に相手に届く「達意」の文章はどうすれば書くことができるか。決起承展か・・・。東京から帰る電車の中で読了。

今日から6月、今夜読んだ本については次稿で。


学生設計優秀作品展

2010-06-01 | A あれこれ



■ 日曜日(5月30日)の日帰り東京の目的はこの作品展を観ることだった。建築を学ぶ学生たちの作品が明治大学駿河台校舎アカデミーコモンの会場に所狭しと展示されていた。

最近の建築は離散的なプラン(←過去ログ)がトレンドのようだ。建築を部分から発想する。建築を構成する要素(単位空間)を時には設計者の感性で、時には明快なアルゴリズム(数理的なルール)によって増殖させて全体を創る。

学生たちの作品にもこの傾向が表れていて、多くの作品がこのような方法論によって計画されていた。「全体」という概念が希薄だからファサードデザインなどはあまり関心が無いようだ。

既存の街並みにこのような方法で発生させた第3の空間、都市の隙間に組み込む空間が新たな意味を発生させる。

広大な敷地に自由に建築を発想し、形がどうの、ファサードデザインがどうのなどという議論はもはや過去のことなのだろう。

学生たちは社会の現状を彼らなりに捉え、社会に対して建築に何が可能かを考え、建築の可能性を信じて、「夢」を表現していた。

彼らのプロジェクトをリアリティーが無いなどとは評すまい。リアリティーが欠如しているのはむしろ過去の価値観に囚われている私の方かもしれないから・・・。