透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

繰り返しの美学

2015-02-15 | B 繰り返しの美学


安曇野市新本庁舎1階、市民サービスカウンター上部の案内サイン

■ 繰り返しの美学についてはその対象を次第に広げてきたが、もともとは建築の構成要素を一方向に一定の間隔で繰り返すことによって生まれるりズミカルな美しさに注目したものだった。

前稿に書いたようにこの庁舎は使う材料もその色も限定的で、壁や天井の構成要素を平面的に、あるいは直線的に繰り返すことにより、美しさ、心地よさを得ている。そう、繰り返しの美学なデザインだ。

この写真で分かるようにレンガ色の案内サイン板の吊り棒も天井の照明を組み込んでいるスリットも壁の板張りも同じパターンの繰り返し。繰り返しの美学






安曇野市新本庁舎

2015-02-14 | A あれこれ









 安曇野市の新本庁舎が今年(2015年)1月に竣工して、先日見学会が開催されたので参加した。この庁舎については公開で行われた設計プロポーザルのプレゼンを聴いたこともあり、注目していた。設計・監理はプロポーザルで選ばれた内藤 廣さんのチームが担当した。

新本庁舎の特徴を外装にも内装にも木が多用されていることだと理解した。外装に安曇野市の市有林のヒノキの間伐材が使われていて、外観上の特徴になっている(写真上)。

内装では壁と天井にカラマツ材が使われている(写真中)。他の内装材は種類も色も限定的で、床は茶色のカーペット、執務室などの天井は岩綿吸音板、加えてプレキャストコンクリートの柱と梁は仕上げ無し(写真下)。白い壁はクロスと化粧ケイカル板など、あとは黒く塗装されたスチールとレンガ色のサインプレートだけ。材料の素材感がストレートに表現された空間になっている。

厚化粧どころか薄化粧すらしていないすっぴんの美しさ、心地よさ。内藤さんが唱える「素形の美」がどのような概念なのか理解していないが、あるいはこのようなすっぴん仕上げのことも指しているのかもしれない。

クライアントから「質実剛健」というコンセプトが提示され、内藤さんらがそれに応えて実現した新本庁舎。 内藤さんの建築は例えば渋谷のギャラリーTOMや三重の海の博物館、安曇野ちひろ美術館、それから十日町情報館や高知駅、旭川駅は写真でしか見ていないが構造と意匠が不可分な関係で成立している。

建築についてはいろんな考え方があるが、この庁舎はもの(建築構成要素)をなるべくシンプルなルールで秩序だてることで魅力的な建築になっている。構成要素の複雑な関係をいかに単純化するか、このような判断というか価値観で設計がなされていると見た。

これは建築生産という面からも理にかなった考え方であり、従ってコストダウンにもつながる。「質実剛健」という設計課題に対する明快な答えが示された建築だ。


 


「まとまりの景観デザイン」

2015-02-11 | A 読書日記

 『まとまりの景観デザイン 形の規制誘導から関係性の作法へ』 小浦久子/学芸出版社 読了。

著者の研究論文をベースにしたものだろう。まえがきは論文の梗概のようなもので、本書も「はじめに」を精読すれば、著者の景観に関する問題意識も、問題の解決への見解というかみちすじも分かる。

以下、「はじめに」をもとに稿を書きたい。

景観はまちの姿で、まちを構成する要素相互の関係から説明されるとし、景観の計画は構成要素とその関係性のデザインだと著者は書いている。関係性はサブタイトルにもあるように、まとまりとともに本書のキーワードだ。

景観にはまちの歴史や地形との呼応といったコンテクスト(文脈)だけでなく、経済活動や暮らしの文化が反映されていて、このような背景をも踏まえなければならないと指摘している。
工学系の研究でありながらこのような模糊とした領域まで含めて考察しなければならないことに、景観に関わる要素が多様なこと、そして景観の難しさが表れている。

歴史的に見ればまちは空間秩序の解体と再構築を繰り返してきたことが分かるが、今日の経済的、文化的選択はまちのコンテクストを継承していない、と問題点指摘している。その一方で、今なお地形風土の制約、地域に限定された材料、集まって暮らすための相互の配慮など、その地域で継続的に、安全に暮らすための空間秩序がある集落もあることも指摘している。

なるほど確かに近在のまちに見られる宅地開発などには、まちを構成している既存の要素との関係性を無視したものが少なくない。結果、景観上の秩序が乱れる。

**景観をとらえることは、まちのあり方や地域環境の特徴をとらえることであり、その計画は都市を構成する様々な計画に対して持続可能な地域環境のあり方を示す可能性を持つ。そこにふつうのまちの景観まちづくりの意味がある。
景観のまとまりから、まちの空間構成を理解し、景観を計画することにより、地域の環境資源や空間コンテクストにもとづき空間を構成する道や建築物の関係性をデザインする。そこにふつうのまちの変化を前提とした景観まちづくりをつなぐ計画の可能性がある。 **(6頁)と説いている。

このようないわば景観計画に関する出発点とも思われる理論を実践の場にまで落とし込むことにはいくつも越えなければならないハードルが並んでいる。やはり景観は難しい。


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― 火の見櫓の添え束

2015-02-11 | A 火の見櫓っておもしろい

 先日穂高まで所用で出かけた。その際、安曇野のヤグラー・のぶさんがブログ「狛犬を巡る火の見ヤグラーな日々」で紹介していた火の見櫓の添え束(@安曇野市穂高牧)を見てきた。



ゴミステーションの左に立っているのが火の見櫓の添え束(*1)。

花崗岩の柱で高さは人の背丈くらい。昭和三十二年十一月建之という刻字がなんとか読める。安曇野には花崗岩を用いた道祖神も多いが花崗岩は風化しやすいので、損耗しているものが少なくない。



この場所に元々3本柱の火の見櫓が立っていて、その柱脚を固定するための添え束で、3本の内、2本は撤去されてこの1本だけが残ったとのこと。ボルトを貫通させるための孔が2つある。

火の見櫓の柱脚をこのように添え束で固定している事例として長野市小柴見の火の見櫓がある。


昭和16年建設





石造の添え束にボルトを貫通させて、柱材の山形鋼(アングル)にひっかけて留めている様子が分かる。同様の事例は北安曇郡池田町にもある。それが下の写真。





鋼製の火の見櫓の柱脚を固定するために、このような添え束が必要なのかどうか。なぜこのような方法にしたのかは不明。コンクリートの塊状基礎に台柱の刻字が埋もれていることから、コンクリート基礎は後施工と判断できるが。

さて、添え束を用いている事例としてこれを挙げないわけにはいかない。大町市美麻(旧美麻村)の木造の火の見櫓。私の火の見櫓巡りはここから始まった。


(移設前、100504撮影)



3本の添え束のうち1本は木のまま、2本は石に替えられている。

さて、穂高の添え束だが、ここに立っていた火の見櫓は木製だったのか、それとも鋼製だったのか・・・。

昭和32年という建設年から判断すれば鋼製とするのが妥当のように思われる。昭和30年代に鋼製の火の見櫓が盛んに建てられた。

だが、添え束を使った鋼製櫓は稀だろうし。仮に使ったとしてもあくまでも補助的なものであって、高さもそれ程必要ないことなどから、人の背丈もある添え束を用いた穂高の火の見櫓は木造であったと考えたいが・・・。ボルト貫通孔の大きさもこの判断を補強するように思われる。鋼製の櫓ならボルトはもっと細いものを使ったのではないか、だとすれば孔はもっと小さいのでは。

木造の火の見櫓が前から立っていて、添え束を木から石に替えた年が昭和32年で、その年を刻んだということはないだろうか。


美麻では移設の際、その年を刻んだ石柱を使っている。

今なおここに木造の火の見櫓が残されていたとすれば、素晴らしい景観要素になり得ただろうと、のぶさんが書いているが、全く同感。北アルプスを背景に凛と立つ木造の火の見櫓・・・。

ここの火の見櫓の立ち姿を写した写真が見つかるといいのだが・・・。


*1 のぶさんのブログに掲載されている資料の呼称に倣って台柱としていたが、添え束に改めた。2023.05.26 踏み台という言葉があるが、台の上に火の見櫓を載せるようにして建てているわけではない。火の見櫓に添えて設置している束(短い柱の意)とする方が状態を的確に表していると判断したので。


展示作品 「火の見櫓のある風景」

2015-02-10 | A あれこれ

■ 前にも書いたが藤森照信さんは建築家を物の実在性を求める赤派と抽象性を求める白派にスパッと分けてみせた。藤森さんによると赤派の祖はル・コルビュジエで白派の祖はミース・ファン・デル・ローエだという。

松本市梓川のカフェ バロの内部は抽象的な「白」の空間だ。床に無垢のフローリングという「赤」を使っているから、「真っ白」というわけではないが。このような空間は絵画などの作品展示にも適している。

実際、ポスターなどの芸術作品が展示され、バロはアートな空間になっている。昨年、東面の壁はオーナーのKさんの企画で「珠玉の一枚」を掛ける壁となった。既にプロの作家ふたりの作品が掛けられ、上質な空間を演出し、お客さんたちを楽しませてきた。

私がKさんから「火の見櫓のある風景のスケッチを」とオファーを受けたのは確か昨年の初秋のことだった。固辞すべきところ、何年か前から自己表現というか、情報発信は大いにすべきと考えているので臆面も無くOKしてしまった。

先週の金曜日(6日)、昨年の秋に描いたスケッチを持参した。今、珠玉の一枚の壁面に私のスケッチが掛けられている。



うれしいような申し訳ないような・・・。 → 「カフェ バロの居間心地」


 


火の見櫓のある風景を描く

2015-02-07 | A 火の見櫓のある風景を描く


 火の見櫓のある風景 塩尻市内にて 201410



昨年の秋、久しぶりに風景スケッチをした。学生のころ、旅行先でスケッチをしたことが何回かあったが、その時以来のことだった。スケッチブックは新たに買い求めたが、水彩絵の具は当時のものを使い、絵筆は習字用で代用した。

まず、太めの油性ペンで線描。描き直しができないところがいい。とに角先に描いた線を活かすように次の線を描いて、30分くらいでなんとか全体をまとめた。遠景と近景とで描き方を変えるにはどうすればいいのか、線をどのように省略するか・・・。太めのペンで描くのは初めてだったから、よく分からないままに描いた。

近景に刈り取りの終わった田圃、あぜの向こうに黄色く色着いた刈り取り前の稲穂、その向こうに住宅が何件か並んでいる。2階建の住宅の屋根が単純ではなく描きにくかった。電柱は迷ったが結局描き入れた。その背景に重なる山の稜線。描き込み過ぎると遠近感が表現できない。一本のなめらかな線で稜線を描きたいが難しい。

次に着色。実際の色を再現しようとはしないで、好きな色だけ使って、さっと仕上げた。小一時間で描き上げたスケッチ。描き方にルールなどあるものか、描きたいように描けば良い。

旅行先で美しい風景に出会ったら写真を撮ってハイ終わり、ではなく、スケッチをすれば思い出になる。どんな絵でも額装すればサマになるから、リビングにでも掛けておけばいいかもしれない。自宅をリフォームしたとき、リビングにピクチャーレールを付けてもらった。

北は角館、弘前。南は津和野、長崎・・・。桜咲く季節になったら、どこかスケッチ旅でもしたいものだ。


 


朝のサードプレイス

2015-02-04 | A 読書日記



■ 平日の早朝、出社する前の小一時間、コーヒーを飲みながら読書する。こんな優雅なひと時を過ごしていいのだろうか、と思わないでもない。

だが、朝、ラジオ体操をして体調を整え、維持する人が大勢いるように、朝、気持ちを整えてから職場に向かう人がいても不思議ではないし、そういう人も多いのではないか。

今日は立春、暦の上では春のはじまりだが、鄙里の春はまだまだ先。このところ毎朝冷え込んで老いた身(ウソ?)にはつらい。

今朝(4日)、7時半過ぎからスタバでコーヒーのショートをマグカップで飲みながら『吉田松陰』桐原健真/ちくま新書を読んだ。

コーヒーの注文は省略することができなかった。 


 


「吉田松陰」を読む

2015-02-04 | A 読書日記



 藤村の長編小説『夜明け前』を読み終えて、次に読み始めたのが『吉田松陰 「日本」を発見した思想家』桐原健真/ちくま新書。

書店でこの本を目にした時、「日本」を発見した思想家というサブタイトルに惹かれて買い求めた。別にNHKの大河ドラマを意識したわけではない。

歴史に疎いので吉田松陰については、もとい吉田松陰についても教科書的な知識が多少あるのみ、まあ、ほとんど無きに等しい。それでも安政の大獄という大事件は浮かぶ。この事件は幕末から明治維新という大きな歴史の流れを描いた『夜明け前』にも当然のことながら出てくる。

吉田松陰はなぜ藩というレベルを超えて「日本」を意識できたのか、あるいは意識しなくてはならなかったのか、なぜ日本の舵取り役を果たした何人もの人材を育てることができたのか・・・。

近代日本史の素養がないと難しいだろうが、とにかく読んでみよう・・・。


 


― 集会所の板木

2015-02-01 | A 火の見櫓っておもしろい



 前稿の石仏・石神が祀られた場所(山形村上竹田)のすぐ近くにこの集会所があるが、そこに板木が吊り下げられていることに気がついた。久しぶりに板木を見た。

訊けばもう叩くことはないそうだが、撤去しないでそのまま残してあるという。板の表面の様子から、繰り返し何回も何回も叩いたことが分かる。

板木を吊り下げてある火の見櫓もある。


上田市内にて


 


石神石仏巡り

2015-02-01 | B 石神・石仏



 奈良旅行で撮った集合写真を届けに山形村まで出かけた。その時この石神・石仏を見た。それぞれ別の場所にあったものをこの場所にまとめて祀ったと聞いた。



左端は火伏せの神様、秋葉大権現。東京の秋葉原という地名の由来も確かこの神様。その隣がこの庚申塔。右側に寛政十二庚申年、左側に十二月日 講中 と彫ってある。

この年は西暦で1800年。昭和55年(1980年)、大正9年(1920年)、明治は無くて、江戸末期の安政7年、万延元年(1860年)、そして寛政12年(1800年)と遡る。ここまでの庚申塔は見たが、更に遡ることができるかどうか・・・。


東筑摩郡山形村上竹田にて

細長い石碑の次は道祖神と二十三夜塔。どちらも負けず劣らず勢いのある文字を彫ってある。道祖神は裏面に彫り込んである文字から安政2年の建立と分かった。二十三夜塔は不明。右端はきちんと確認はしなかったが、たぶんこだま様。養蚕が盛んに行われていたころに祀られたものだろう。

このカテゴリーの記事はこれ以上内容が深まらない・・・。


 


魅力的なまちづくりのために

2015-02-01 | A あれこれ

 昨日(1月31日)、ある講座(全10講)の第3講、第4講を受講した。「都市の記憶を継承する―イタリアに学ぶまちづくり」と題した第4講(講師:民岡順朗氏)はなかなかおもしろかった。

配布された資料を参考に稿を起こす。

イタリアの街は「石造り」だから壊れないし、古いものが残って当然、と一般には思われているが、実はそうではなくて、ローマ人は古い街を埋めてその上に新しい街をつくってきたし、中世、新築建造物の石材を採るためにコロッセオを破壊したそうだ。

イタリア、いや他国の建築事情に疎いからこのようなことは知らなかった。

イタリアの古い街が残っている理由は「残ったのではなく、残した」からだという。建造物保全はルネッサンスから始まり、都市計画については高度成長期(6、70年代)に政策が転換されてからだという。講師の民岡氏はイタリアの徹底した修復主義には宗教・思想が関係しているだろうと指摘していた。

日本の街は木造で、地震もあるから壊れやすいし、造り替えて当然という考え方が一般的だ。火事と喧嘩は江戸の華と言われていたように、建替えは日常的に行われていたのではなかったか。伊勢神宮は20年毎に新築を繰り返してきた。だから新築は当然か。

民岡氏は日本の伝統構法(筆者注:工法とは概念が違う)は修理・修復に最適だと指摘していた。

日本の人口はこの先100年で半減するし、リフォームは安価で地球環境にも優しい。となるとイタリアのように修復主義に転換することになるのか・・・。

ここで民岡氏は日本人の根本思想として「無常」を挙げた。日本人の無常観は自然との共存、災害意識と深くかかわっているのだろう。

「無常観」が心根にある日本人は、イタリアのようにはいかないということで、多様な経済的・文化的文脈が重なり合った「都市の記憶を継承する」ことを結論としていた。民岡氏はその方法論として「新・旧の対比・共存」を挙げていた。

同様のことを私も考えていた。以下に拙ブログから再掲する。
**
そう。あのオーストリアの郵便貯金局が出来たのが、この間読んだ本に出てたけど、1906年。東京中央郵便局より少し古いんだけど、現役だよね」
「そうですね。どうして日本って建築の寿命が短いんでしょうね、でも中央郵便局って長い方なんですよね」

「どうしてだろうね。まあ、美空ひばりの「川の流れのように」とかテレサ・テンの「時の流れに身をまかせ」だっけ?それにジュリーの「時の過ぎ行くままに」とか、歌にもあるように、人も世の中も常に変わるものだっていう、無常観・・・、があるからね、日本人の心には。それが建築にも反映しているのかも知れないな」
「建築も都市も常に変わっていくという考え方ですか」
「そう。なにもかも変わって当然という基本的な考え方。まあ伊勢神宮は例外だろうね。だから100年も200年も変わらないなんていう建築や都市なんてイメージできない、この国ではね。でもすべての建築がどんどん更新されていったら、東京なんて根無し草、漂流都市になるよね。だから、せめて東京駅と中央郵便局にはアースアンカーの役目を果たしてもらわないと」

「アースアンカーって、漂流止めってことですか?」
「そう、漂流止め。根無し草になるのを防ぐのに必要な最低限の建築。記憶を留める建築がやはり都市には必要なんだと・・・。でも本当はもっとそういう建築が点在していないと。今や東京駅の周りはガラスのタワーだらけ」
「そうですね」
「ガラスの建築って歴史を留めることが出来ないと思うんだよ」
「歴史を留める・・・」
「そう、以前ブログに書いたことがあるけれど、石やレンガなんかには、記憶力がある。歴史を記憶することができる材料。コンクリートはどうかな」
**
(20090314  過去ログ

こんな記事も書いている。以下に再掲する。

**
この国の街並みの魅力を考える時はこの混沌とした状態を前提とせざるを得ない。ならば、せめて大正から昭和初期、戦前、そして戦後まもなく建てられた古い建築も共存する、つまり何層かの歴史の重なりが見られるような街並みに、魅力を見出そうという考え方があるのではないか。
**
(20091006)

偶々民岡氏と同じことを考えていたが、この国の都市の現状を踏まえた、現実的な結論だと思う。

*****

民岡氏は最後に「過去」を背景にした「新しいもの」は映える、として重厚な蔵をブティックに「レスタウロ」した事例を紹介して、カッコいい、絵になる、お洒落という評価になるとした。



2013年9月に行った鎌倉のこのレストランは古い住宅に現代的なデザインを組み込んだお洒落な店で、この一事例だった。

過去を背景にした現代は映えるがその逆、現代を背景にした過去は落ち着かないし、しっくりこないとして現代的な高僧ビルを背景にした神社の写真を示していた。興味深い指摘だと思う。

「過去に組み込まれた現代」、「現代に組み込まれた過去」 私の路上観察の新たな視点が明確になった。





 


― 平面が台形の火の見櫓

2015-02-01 | A 火の見櫓っておもしろい



奈良市白毫寺町の火の見櫓

■ 先日奈良市内で火の見櫓を2基見たが、内1基は櫓の平面が台形だった。上の写真で下段の水平部材を目で追うとそのことが分かる。手前の丸鋼の梯子段が台形の上底(平行2辺の短辺)になっている。この形を見て、以前 長野県は立科町でもやはり台形の火の見櫓を見たことを思い出した。


北佐久郡立科町の火の見櫓

一番上の梯子段のところを見ると櫓の平面が台形であることが分かる。 奈良と長野で同じ構成で造られた火の見櫓を見たことになる。偶々同じ形になったということだろうか。台形の火の見櫓は関西方面では散見されるそうで、標準的な形なのかもしれない。

構造的なバランスということから見てこの形はどうなんだろう。

 
奈良市の火の見櫓(左)と立科町の火の見櫓(右)

よく見ると奈良の櫓は水平部材のところに必ず梯子段が来るようにしてあるが、立科の櫓の場合は両部材がずれているところがある。構造的には一致している方が好ましいだろう。

平面が台形ということは同じでも見張り台や屋根のデザインは全く違う。火の見櫓は十基十色だ。