(芹沢城址)
芹澤城址
霞ヶ浦大橋を渡ると行方市である。旧玉造町の芹沢は、あの芹澤鴨、平間重助の出身地である。もう廃線となった鹿島鉄道の玉造町駅前から伸びる道を、道なりに進むこと十分ほど。いきなり赤字に白抜きの「誠」の文字が目に飛び込んでくる。芹澤鴨と平間重助を生んだ土地である。
芹沢氏の祖は、南北朝時代まで遡る。当時、平竜太という名の豪族が相模国高座郡芹沢に所領を持ち、そこに館を構えたことから芹沢氏を称した。その子孫が常陸国に土着し、天文年間(1532~1554)に築城したのが芹澤城である。
(芹澤鴨生家)
芹沢氏は、徳川家の直参御家人、上席郷士として芹沢の屋敷に住した。現在も芹沢城址碑の近くに土蔵を備えた大きな屋敷がある。これが芹澤鴨の生家である。芹澤鴨は、芹澤貞幹の三男としてこの家に生まれた。幼名を玄太といった。
十五歳頃、尊王攘夷思想に共鳴し、水戸の天狗党の前身、天狗組に加わった。この頃、下村継次と名乗っていた。神道無念流の剣術を修め、免許皆伝、師範役の腕前だったという。
文久三年(1863)の浪士組結成に参加した以降の話はあまりに有名である。その年の九月、近藤勇一派の手により斬殺された。年齢は不詳、何かと謎の多い人物であるが、命を縮めたのは、やはり当人の相次ぐ乱行が祟ったのであろう。
芹澤鴨生家跡
平間重助の説明板
平間重助も同郷の芹澤鴨とともに新選組結成に参加した。芹澤鴨に剣術を学び、神道無念流目録の腕前という。結成間もない新選組では、副長助勤、勘定取締方、いわば経理部長として重きを成した。芹澤鴨が京都壬生の八木邸で暗殺されたとき、平間重助も同宿していたが難を逃れ、消息を絶った。最近になって重助が郷里に戻って、明治七年(1874)五十一歳で世を去ったということが明らかになっている。
(法眼寺)
法眼寺
芹沢家墓地
法眼寺には、芹沢家の墓がある。中央の墓の主、芹沢外記は芹澤鴨の父である。同じく法眼寺の境内には芹澤鴨と平間重助の顕彰碑が建っている。
新選組を創った男
芹澤鴨 平間重助 顕彰碑
芹澤城址
霞ヶ浦大橋を渡ると行方市である。旧玉造町の芹沢は、あの芹澤鴨、平間重助の出身地である。もう廃線となった鹿島鉄道の玉造町駅前から伸びる道を、道なりに進むこと十分ほど。いきなり赤字に白抜きの「誠」の文字が目に飛び込んでくる。芹澤鴨と平間重助を生んだ土地である。
芹沢氏の祖は、南北朝時代まで遡る。当時、平竜太という名の豪族が相模国高座郡芹沢に所領を持ち、そこに館を構えたことから芹沢氏を称した。その子孫が常陸国に土着し、天文年間(1532~1554)に築城したのが芹澤城である。
(芹澤鴨生家)
芹沢氏は、徳川家の直参御家人、上席郷士として芹沢の屋敷に住した。現在も芹沢城址碑の近くに土蔵を備えた大きな屋敷がある。これが芹澤鴨の生家である。芹澤鴨は、芹澤貞幹の三男としてこの家に生まれた。幼名を玄太といった。
十五歳頃、尊王攘夷思想に共鳴し、水戸の天狗党の前身、天狗組に加わった。この頃、下村継次と名乗っていた。神道無念流の剣術を修め、免許皆伝、師範役の腕前だったという。
文久三年(1863)の浪士組結成に参加した以降の話はあまりに有名である。その年の九月、近藤勇一派の手により斬殺された。年齢は不詳、何かと謎の多い人物であるが、命を縮めたのは、やはり当人の相次ぐ乱行が祟ったのであろう。
芹澤鴨生家跡
平間重助の説明板
平間重助も同郷の芹澤鴨とともに新選組結成に参加した。芹澤鴨に剣術を学び、神道無念流目録の腕前という。結成間もない新選組では、副長助勤、勘定取締方、いわば経理部長として重きを成した。芹澤鴨が京都壬生の八木邸で暗殺されたとき、平間重助も同宿していたが難を逃れ、消息を絶った。最近になって重助が郷里に戻って、明治七年(1874)五十一歳で世を去ったということが明らかになっている。
(法眼寺)
法眼寺
芹沢家墓地
法眼寺には、芹沢家の墓がある。中央の墓の主、芹沢外記は芹澤鴨の父である。同じく法眼寺の境内には芹澤鴨と平間重助の顕彰碑が建っている。
新選組を創った男
芹澤鴨 平間重助 顕彰碑