史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

玉造

2009年01月24日 | 茨城県
(芹沢城址)


芹澤城址

霞ヶ浦大橋を渡ると行方市である。旧玉造町の芹沢は、あの芹澤鴨、平間重助の出身地である。もう廃線となった鹿島鉄道の玉造町駅前から伸びる道を、道なりに進むこと十分ほど。いきなり赤字に白抜きの「誠」の文字が目に飛び込んでくる。芹澤鴨と平間重助を生んだ土地である。
芹沢氏の祖は、南北朝時代まで遡る。当時、平竜太という名の豪族が相模国高座郡芹沢に所領を持ち、そこに館を構えたことから芹沢氏を称した。その子孫が常陸国に土着し、天文年間(1532~1554)に築城したのが芹澤城である。

(芹澤鴨生家)
芹沢氏は、徳川家の直参御家人、上席郷士として芹沢の屋敷に住した。現在も芹沢城址碑の近くに土蔵を備えた大きな屋敷がある。これが芹澤鴨の生家である。芹澤鴨は、芹澤貞幹の三男としてこの家に生まれた。幼名を玄太といった。
十五歳頃、尊王攘夷思想に共鳴し、水戸の天狗党の前身、天狗組に加わった。この頃、下村継次と名乗っていた。神道無念流の剣術を修め、免許皆伝、師範役の腕前だったという。
文久三年(1863)の浪士組結成に参加した以降の話はあまりに有名である。その年の九月、近藤勇一派の手により斬殺された。年齢は不詳、何かと謎の多い人物であるが、命を縮めたのは、やはり当人の相次ぐ乱行が祟ったのであろう。


芹澤鴨生家跡


平間重助の説明板

平間重助も同郷の芹澤鴨とともに新選組結成に参加した。芹澤鴨に剣術を学び、神道無念流目録の腕前という。結成間もない新選組では、副長助勤、勘定取締方、いわば経理部長として重きを成した。芹澤鴨が京都壬生の八木邸で暗殺されたとき、平間重助も同宿していたが難を逃れ、消息を絶った。最近になって重助が郷里に戻って、明治七年(1874)五十一歳で世を去ったということが明らかになっている。

(法眼寺)


法眼寺


芹沢家墓地

法眼寺には、芹沢家の墓がある。中央の墓の主、芹沢外記は芹澤鴨の父である。同じく法眼寺の境内には芹澤鴨と平間重助の顕彰碑が建っている。


新選組を創った男
芹澤鴨 平間重助 顕彰碑

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石岡

2009年01月24日 | 茨城県
(東耀寺)


東耀寺


鈴木忠良(鈴木三樹三郎) 婦人はな 墓

 JR石岡駅から歩いて行ける距離に東耀寺がある。本堂から聞こえる読経の声をBGMに、鈴木三樹三郎の墓を探した。鈴木三樹三郎は、伊東甲子太郎の実弟で、伊東とともに新選組に入隊し、一時九番組長を務めた。慶應三年(1867)三月、伊東が新選組を脱退して高台寺党(御陵衛士)結成すると、行動をともにした。所謂「油小路の変」で伊東甲子太郎は暗殺されるが、三樹三郎は乱闘を脱して薩摩藩邸に保護された。維新後は、鶴岡警察署長などに就いた。大正八年(1919)八十三歳にて死去。東耀寺本堂裏の墓には、維新後の姓名鈴木忠良が彫られている。


故 忠明鈴木君 川俣氏婦人 之墓

 同じ墓地に、伊東甲子太郎、鈴木三樹三郎の実父、鈴木忠明、母こよの墓がある。

(佐久良東雄生家)


佐久良東雄生家

 石岡市は、旧新治郡八郷町を吸収して随分と広大な町となった。旧八郷町の中心となる町が柿岡である。柿岡の東、浦須という集落に佐久良東雄の生家がある。佐久良東雄は、文化八年(1811)に当家に生まれ、九歳のとき近郷の下林の観音寺に入って万葉集研究家となった。二十五歳で土浦善應寺の住職となったが、この時期に藤田東湖ら多くの勤王志士と交わった。のちに大阪に出て和学を講じたが、桜田門外の変に加わった高橋多一郎父子を匿ったため捕えられ、獄中で食を絶って死んだ。四十九歳という。


史蹟 佐久良東雄舊宅

 茅葺の長屋門の前に「史蹟 佐久良東雄舊宅」の碑がたっている。佐久良東雄の本姓は飯島氏で、現在も旧宅は飯島氏所有となっている。建設時期は十八世紀中頃といい、長屋門、土蔵を備える屋敷は堂々たる風格を漂わせている。

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かすみがうら

2009年01月24日 | 茨城県
(志筑小学校)


かすみがうら市立志筑小学校

 「平成の大合併」により、霞ヶ浦町と千代田町が合併して「かすみがうら市」が誕生した。霞ヶ浦が千代田を吸収したような印象を与えないように配慮して敢えて平仮名を採用したのだろうが、第三者が見て奇異な印象は否めない。新しく誕生したかすみがうら市は随分と東西に細長い。無理にくっつけたのではないかと勘繰りたくなる。先ず新かすみがうら市の北西端に位置している志筑小学校を訪ねる。


志筑城址

 徳川幕府は、江戸周辺に弱小の大名、旗本を配置した。その結果、現在の地名でいうと、千葉県、埼玉県、それに茨城県南部には小さな藩が数多く割拠することとなった。志筑藩もそうした藩の一つである。現在、志筑小学校がある場所には、かつて志筑城が築かれていた。この城の歴史は古く鎌倉時代に遡る。一時期、廃城となっていたが、慶長七年(1603)佐竹氏の国替えに伴い、本堂氏が出羽国(秋田県千畑町)から移封され、当地の領主となってここに陣屋を置いた。
私が志筑藩の存在を知ったのは、新橋の会社の近くで大規模な道路工事が行われ、それに伴って発掘調査が行われたその場所が、江戸時代、志筑藩の屋敷跡であった。発掘調査の結果、古い食器が数点見つかっただけであるが、それでも大都会の真ん中に、このようなものが眠っていたというだけで十分刺激的である。その常陸志筑藩がどこにあるかを調べていて、志筑城に行き当たったのである。
 幕末、この小藩から新選組参謀のちに御陵衛士となった伊東甲子太郎と実弟、鈴木三樹三郎兄弟が出た。

(竹内百太郎生家)


竹内百太郎生家

 かすみがうら市の東端、霞ヶ浦湖畔に近い柏崎に、勤王の志士にして“天狗党三総裁”の一人、竹内百太郎の生家が残っている。武田耕雲斎や藤田小四郎もここを訪れたといわれる。
 竹内百太郎は、天保二年(1831)に常陸国安飾村に生まれ、嘉永七年(1854)に家督を継いだ。安政二年(1855)には小川郷校を監するに至った。元治元年(1864)三月、田丸稲之衛門らと筑波に挙兵し、その幕僚となった。終始、田丸と行動を共にし、慶応元年(1865)二月四日、敦賀にて斬罪に処された。年三十五であった。
 竹内百太郎の生家は、郷士の家格を伝える立派な門構えが目印である。すぐ近くに竹内家の墓所があり、そこに百太郎の顕彰墓もある。墓地に車を停めて、生家を訪ねようとすると、向いの散髪屋の女性に呼び止められた。墓地のではなくて、散髪屋の駐車場だったのである。慌てて自動車を近くの太宮神社に移動した。


贈従四位竹内百太郎君彰烈之碑


竹内百太郎碑


竹内家奥都城

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土浦

2009年01月24日 | 茨城県
(土浦城) 
今般、九年振りに茨城県に足を踏み入れ、土浦、かすみがうら市の柏崎、志筑、石岡、行方市の玉造の史跡を回ってきた。九年というと、都会では風景が一変してしまうに十分な時間であるが、ここに来ると時間が止まったかのような錯覚に陥る。短い時間であったが多くの史跡を楽しむことができた。


土浦城櫓門

まずは土浦城から。土浦城は現在、亀城公園として整備されている。亀城公園の南西、土浦一中の構内の一角に、藩校郁文館の正門が移築されている。


藩校郁文館正門

土浦藩の藩校郁文館は、寛政十一年(1799)七代藩主土屋英直のとき城内に開設されたものであるが、天保十年(1839)十代藩主土屋寅直が現在地に移設した。郁文館は、文館と武館に分かれていたため、文武館とも呼ばれ、有名な藤森弘安や剣客島田虎之助らが指導に当たった。

(善應寺)


善應寺

善應寺には、藩校郁文館で教鞭をとった木原老谷の墓もある。


荷亭木原府君之墓(老谷の墓)
手前は夫人の墓

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