同名の新書が先ほど刊行されたばかりで、当然といえば当然ながら、この講演会で一坂太郎氏から話された内容は、ほぼ新書で読んだものと一緒であった。勿論、新書で一冊になる内容を一時間半程度で話し切れるものではないので、この日の講演はダイジェスト版といったところであった。本に書かれていない話題といえば、先ごろ逝去された俳優高倉健のことくらいで、オチが「寅さん」の映画というところまで、まったく同じであった。
感心したのは、一坂太郎氏の饒舌振りであった。一時間半の間休みもなく、それでいて一切淀みなく話しきった。一坂氏は、あちらこちらで講演をされていて、同じ演題の講演を何回もこなされていることは想像に難くないが、それにしても巧みな話術で、長時間飽きることなく聴くことができた。
一坂太郎氏が言いたかったことの一つは、吉田松陰は特殊な家庭環境で育ったのではないということである。当日配られたパンフレットにも「下級武士の家に生まれた」と書いてあるが、松陰の実家杉家は藩政に参与するような上級武士ではなかったものの、下級武士でもなかったという。父百合之助が役職に就くまでは貧しい生活を強いられたようであるが、役職を得てからは比較的生活は安定していた。
庶民は、逆境を跳ね返して名声を手に入れる成功物語が大好きである。その成功物語に合わせて、何者かが杉家を極貧の家庭に仕立てたのであろう。
松陰がほかの子供と異なる家庭環境にあったとすれば、兵学師範の家である吉田家の養子となり、八歳でその当主となってしまったことである。九歳のとき藩校明倫館の教授見習となり、そのため山鹿流軍学を徹底的に仕込まれるスパルタ教育を受けることになった。松陰には幼馴染と呼べるような友達はおらず、十一歳で藩主の君前で講義をするほどの英才教育を受けた。その結果、松陰の(良くも悪くも)人を疑うことを知らない、純粋培養されたキャラクターが形成されていった。
吉田松陰は異常に筆まめで膨大な量の著作のほか日記や手紙を残しているが、一坂氏によれば、末妹の文に宛てた手紙は一通のみしか残っていないらしい。文がものごころついた頃、松陰は投獄されたり遊歴の旅に出たりと、家を空けることが多かった。晩年の文は、松陰のことをあまり語り残していないが、それはあまり記憶に残っていなかったからではないかというのが一坂氏の推論である。
来年(平成二十七年)の大河ドラマは吉田松陰とその妹文の物語である。一坂氏の話を聞く限り、松陰と文との接点は少なかったようである。史実や資料に基づいてドラマを組立てようとしても無理があろう。とはいえ、全く史実を無視した無茶なドラマにならないことを祈るばかりである。
感心したのは、一坂太郎氏の饒舌振りであった。一時間半の間休みもなく、それでいて一切淀みなく話しきった。一坂氏は、あちらこちらで講演をされていて、同じ演題の講演を何回もこなされていることは想像に難くないが、それにしても巧みな話術で、長時間飽きることなく聴くことができた。
一坂太郎氏が言いたかったことの一つは、吉田松陰は特殊な家庭環境で育ったのではないということである。当日配られたパンフレットにも「下級武士の家に生まれた」と書いてあるが、松陰の実家杉家は藩政に参与するような上級武士ではなかったものの、下級武士でもなかったという。父百合之助が役職に就くまでは貧しい生活を強いられたようであるが、役職を得てからは比較的生活は安定していた。
庶民は、逆境を跳ね返して名声を手に入れる成功物語が大好きである。その成功物語に合わせて、何者かが杉家を極貧の家庭に仕立てたのであろう。
松陰がほかの子供と異なる家庭環境にあったとすれば、兵学師範の家である吉田家の養子となり、八歳でその当主となってしまったことである。九歳のとき藩校明倫館の教授見習となり、そのため山鹿流軍学を徹底的に仕込まれるスパルタ教育を受けることになった。松陰には幼馴染と呼べるような友達はおらず、十一歳で藩主の君前で講義をするほどの英才教育を受けた。その結果、松陰の(良くも悪くも)人を疑うことを知らない、純粋培養されたキャラクターが形成されていった。
吉田松陰は異常に筆まめで膨大な量の著作のほか日記や手紙を残しているが、一坂氏によれば、末妹の文に宛てた手紙は一通のみしか残っていないらしい。文がものごころついた頃、松陰は投獄されたり遊歴の旅に出たりと、家を空けることが多かった。晩年の文は、松陰のことをあまり語り残していないが、それはあまり記憶に残っていなかったからではないかというのが一坂氏の推論である。
来年(平成二十七年)の大河ドラマは吉田松陰とその妹文の物語である。一坂氏の話を聞く限り、松陰と文との接点は少なかったようである。史実や資料に基づいてドラマを組立てようとしても無理があろう。とはいえ、全く史実を無視した無茶なドラマにならないことを祈るばかりである。