(保土ヶ谷宿本陣)

保土ヶ谷宿本陣
東海道保土ヶ谷宿は、小田原北条氏の家臣刈部豊前守康則の子孫である刈部家が代々務めた。同家は、名主と問屋を兼ねた、保土ヶ谷宿における最も有力な家で、安政六年(1859)の横浜開港時にも当時の当主清兵衛悦甫が総年寄に任じられ、初期の横浜町政に尽くした。明治三年(1870)、軽部姓に改め現在に至っている。本陣跡には木造の通用門が残されているだけであるが、その背後には今も「軽部」の表札を掲げる家がある。
(久保山墓地)
久しぶりに久保山墓地を訪ねた。土佐藩の戊辰戦争の戦死者の墓が、整理されて一カ所にまとめられていた。

官修墓地
山しろや和介墓
今回、久保山墓地を訪ねた目的は、山城屋和助の墓であった。無数の墓石の中から、さてどうやって探し当てようかと思案するまでもなく、いきなり仮名交じりの自然石の墓が目の前に現れた。
山城屋和助は、本名野村三千三。天保七年(1836)、山口県周防玖珂郡(現・岩国市本郷町)の生まれ。家は代々医を業とした。初め浄土宗の僧となり、文久年間還俗して奇兵隊に入った。戊辰戦争では東北を転戦し、維新後、横浜で商人となり、山城屋和助と名を改めた。長州閥の軍部と結ぶ政商として巨利を得たが、山縣有朋から便宜を与えられ、兵部省の公金六十五万円を借り出し生糸相場に失敗した。長州閥軍部の汚職として江藤新平が追及するところとなった。急ぎパリから帰国し陸軍省内で割腹自殺した。明治五年(1872)、十一月のことであった。享年三十七。
山城屋和助の自殺により、不祥事の真相は闇に葬られ、山縣有朋は辛うじて政治生命を保つことになった。和助は汚名を一身に背負うことになったが、そのことを悔やむ地元本郷村の市長(当時)が、久保山墓地の墓石の傍らに墓標を建てた。
――― 明治維新 勤皇の志士として活躍 四境戦争 戊辰戦争で軍功をたてる のち、横浜南仲町に出て貿易商となり 横浜の開港 貿易産業に貢献す 本郷村制施行百周年を記念して 山城屋和助を顕彰し永久保存の為改修す
と記されている。死後、和助の汚名だけが残されたが、維新前後の活躍を忘れないで欲しいという切なる訴えである。
天授院殿仁譽壽宗泰大居士(原善三郎の墓)
原善三郎は、文政十年(1827)、武蔵児玉郡渡瀬村(現・埼玉県神川町)に生まれた。父は生糸取引人原大平兵衛。文久元年(1861)、横浜に出て生糸商亀屋を開いた。攘夷党に脅かされても臆せず商いを続け、明治二年(1869)には新政府が設けた通商司為替方となり、生糸の商い高も第一位を占め、二位の茂木惣兵衛と並んで時代を築いた。不平等な貿易を是正するため生糸荷預所を設立して外国商人を対決した。横浜商法会議所頭取、衆議員議員。明治三十二年(1899)没。七十三歳。墓域は往時の原家の繁栄を彷彿とさせる広大なものである。墓所には、孫娘の婿で、のちに三渓園を開いた原三渓の顕彰碑もある。

三渓原先生之碑
(林光寺)

林光寺
箱館戦争終結の直前、箱館を脱した桑名藩主松平定敬は、横浜に上陸して林光寺に入りそこで一泊した。翌日には市ヶ谷の尾張藩邸に移された。「「朝敵」から見た戊辰戦争」(水谷憲二著 洋泉社新書)によれば、定敬が宿泊したのは、現在緑区の林光寺とされるが、久保山墓地にも同名の寺がある。久保山の林光寺は、もと横浜の海岸沿いにあったものを、明治初年の久保山墓地に開設とともに、当地に移動した経緯があるらしい。定敬が宿泊したのが、どちらなのか確信が持てないが、立地からすれば久保山の林光寺の方が正解のような気がする。

保土ヶ谷宿本陣
東海道保土ヶ谷宿は、小田原北条氏の家臣刈部豊前守康則の子孫である刈部家が代々務めた。同家は、名主と問屋を兼ねた、保土ヶ谷宿における最も有力な家で、安政六年(1859)の横浜開港時にも当時の当主清兵衛悦甫が総年寄に任じられ、初期の横浜町政に尽くした。明治三年(1870)、軽部姓に改め現在に至っている。本陣跡には木造の通用門が残されているだけであるが、その背後には今も「軽部」の表札を掲げる家がある。
(久保山墓地)
久しぶりに久保山墓地を訪ねた。土佐藩の戊辰戦争の戦死者の墓が、整理されて一カ所にまとめられていた。

官修墓地

山しろや和介墓
今回、久保山墓地を訪ねた目的は、山城屋和助の墓であった。無数の墓石の中から、さてどうやって探し当てようかと思案するまでもなく、いきなり仮名交じりの自然石の墓が目の前に現れた。
山城屋和助は、本名野村三千三。天保七年(1836)、山口県周防玖珂郡(現・岩国市本郷町)の生まれ。家は代々医を業とした。初め浄土宗の僧となり、文久年間還俗して奇兵隊に入った。戊辰戦争では東北を転戦し、維新後、横浜で商人となり、山城屋和助と名を改めた。長州閥の軍部と結ぶ政商として巨利を得たが、山縣有朋から便宜を与えられ、兵部省の公金六十五万円を借り出し生糸相場に失敗した。長州閥軍部の汚職として江藤新平が追及するところとなった。急ぎパリから帰国し陸軍省内で割腹自殺した。明治五年(1872)、十一月のことであった。享年三十七。
山城屋和助の自殺により、不祥事の真相は闇に葬られ、山縣有朋は辛うじて政治生命を保つことになった。和助は汚名を一身に背負うことになったが、そのことを悔やむ地元本郷村の市長(当時)が、久保山墓地の墓石の傍らに墓標を建てた。
――― 明治維新 勤皇の志士として活躍 四境戦争 戊辰戦争で軍功をたてる のち、横浜南仲町に出て貿易商となり 横浜の開港 貿易産業に貢献す 本郷村制施行百周年を記念して 山城屋和助を顕彰し永久保存の為改修す
と記されている。死後、和助の汚名だけが残されたが、維新前後の活躍を忘れないで欲しいという切なる訴えである。

天授院殿仁譽壽宗泰大居士(原善三郎の墓)
原善三郎は、文政十年(1827)、武蔵児玉郡渡瀬村(現・埼玉県神川町)に生まれた。父は生糸取引人原大平兵衛。文久元年(1861)、横浜に出て生糸商亀屋を開いた。攘夷党に脅かされても臆せず商いを続け、明治二年(1869)には新政府が設けた通商司為替方となり、生糸の商い高も第一位を占め、二位の茂木惣兵衛と並んで時代を築いた。不平等な貿易を是正するため生糸荷預所を設立して外国商人を対決した。横浜商法会議所頭取、衆議員議員。明治三十二年(1899)没。七十三歳。墓域は往時の原家の繁栄を彷彿とさせる広大なものである。墓所には、孫娘の婿で、のちに三渓園を開いた原三渓の顕彰碑もある。

三渓原先生之碑
(林光寺)

林光寺
箱館戦争終結の直前、箱館を脱した桑名藩主松平定敬は、横浜に上陸して林光寺に入りそこで一泊した。翌日には市ヶ谷の尾張藩邸に移された。「「朝敵」から見た戊辰戦争」(水谷憲二著 洋泉社新書)によれば、定敬が宿泊したのは、現在緑区の林光寺とされるが、久保山墓地にも同名の寺がある。久保山の林光寺は、もと横浜の海岸沿いにあったものを、明治初年の久保山墓地に開設とともに、当地に移動した経緯があるらしい。定敬が宿泊したのが、どちらなのか確信が持てないが、立地からすれば久保山の林光寺の方が正解のような気がする。