
水郷の町 潮来
久しぶりに茨城県下の史跡を訪ねた。桜田門外の変から百五十年目というメモリアル・イヤーであった平成二十二年(2010)には、毎月のように茨城を訪ねたが、その後少し足が遠のいていた。今回は潮来から鉾田、小美玉を経て水戸市内に入り、笠間、結城、つくばを回る計画である。朝、四時過ぎに自宅を出て、六時半に潮来に着いた。
(長勝寺)

長勝寺
石川於菟次郎(音次郎)の墓は、屋根で覆われている。石川於菟次郎は、小田原藩士。水戸学に傾倒し、藤田小四郎と倒幕を画策したが、佐幕派と密通しているとの疑いを持たれ、元治元年(1864)一月、潮来で自刃した。死を憐れんだ地元の人たちにより、長勝寺に葬られた。
石川於菟次郎墓
(浄国寺)
浄国寺
故 関戸覚蔵墓
浄国寺に、「東陲民権史」を著し、「いはらき」新聞の創設者として知られる関戸覚蔵の墓がある。
関戸覚蔵は、弘化元年(1844)十一月、潮来村に生まれた。生家は潮来の富豪に属する郷士の家で、父主禮の長男であった。父主禮は漢学の深い知識を有した人で、維新後は神社の社司を務めていた。覚蔵は、父の指導もあって漢学を学ぶようになった。二十歳台前半の頃、水戸藩は天狗党と諸生党の対立が激化し、ついに武力衝突にまで発展した。両派の対立は、武士階級のみならず、農村までもが二つに分れて対立した。関戸家は諸生派に加わったため、明治維新とともに形勢は一変した。関戸家も一家離散の悲劇にあい、この頃覚蔵も各地を流浪したという。明治六年(1873)、時の茨城県権令関新平が両派の融和を諭達したことから、ようやく故郷に戻ることができた。
明治七年(1874)一月、覚蔵は東京師範学校の官費生となったが、病のため翌年退学して帰郷。同年十月、潮来村副戸長、さらに一年後には戸長に就任し、地方行政の役人として活躍した。
明治十年代は、全国的に自由民権運動が盛んな時期であった。覚蔵も潮来村で開かれた政談演説会に出席し、民権思想を強く持つようになった。やがて公益民会という政治結社を設立した。明治十四年(1881)、県会議員選挙に行方郡から立候補して当選。県会では論客として注目され、幹部の地位にあった。明治十九年(1886)、県会議員を辞すると、県庁職員、さらに明治二十三年(1890)から六年間、衆議院議員を務めた。明治二十四年(1891)、「いはらき」創刊号を発刊して以来、新聞発行に情熱を傾けた。大正五年(1916)、七十三歳で没。
(関戸覚蔵顕彰碑)
潮来は利根川の河口にある街である。潮来富士屋ホテルの裏手の川沿いに関戸覚蔵顕彰碑が建てられている。

関戸覚蔵顕彰碑