史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

筑波 Ⅳ

2014年11月16日 | 茨城県
(面野井)


高谷篤三郎碑

 面野井に水戸天狗党の高谷篤三郎の墓がある。目印は、日本一と賞されるしだれ桜である。付近を歩いてみたが、なかなか見つからない。この時発見したのだが、この近所の住人の九割は高谷姓であった。
 畑仕事をしていた老人に道を聞いてようやくこの場所が分かった。しだれ桜のふもとには、高谷家の墓所がある(つくば市面野井125向い)。
 高谷篤三郎は、農民源右衛門の五男。天狗党挙兵に参加し、終始藤田小四郎らと行を共にした。慶応元年(1865)二月十五日、敦賀で斬。二十五歳(二十一歳とも)。高谷家祖先を合葬する墓の傍らにある墓標には、何故だか慶応三年(1866)三月十六日没となっている。法名は「思道院忠阿篤信居士」。


高谷氏祖先瑩

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結城 Ⅱ

2014年11月16日 | 茨城県
(結城城跡公園)


表忠之碑

 結城城は、治承年間(1177~1180)に結城朝光が築いたとされるが、確証はない。結城家は関東八家の一つとして勢力をふるい、戦国時代には宇都宮市、佐竹氏らと伍して生き残った。天正十九年(1591)には、徳川家康の次男秀康を養子にもらいうけ、慶長六年(1601)の越前への国替えまで関東の雄として栄えた。結城氏の転出後、結城城は廃城となったが、その後、元禄十三年(1700)、水野勝長の入部以降、明治に至るまで水野氏の居城として使用された(結城市結城2486‐1)。
 現在、城跡には何の遺構もない。片隅に戊辰戦争にて死傷した新政府軍の氏名を背面に刻んだ表忠之碑が建てられている。

(妙国寺)


妙国寺


笠間藩士の墓


 妙国寺には、戊辰戦争で戦死した六人の笠間藩士の墓がある(結城市結城1570)。いずれも慶応四年(1868)四月十六日、下野小山における戦死者である。
 右から川崎忠兵衛。番頭。隊長。六十七歳。
 秋元金吾。大砲方。三十六歳。
 藤江右膳。目付。軍監。四十三歳。
 川崎保蔵。戦士。十八歳。
 川俣善七郎。大砲方。四十九歳。
 中村庄三郎。戦士。二十六歳。

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