(将軍塚青龍殿)
将軍塚と青龍殿
将軍塚へは、清水寺の境内を経由する道と岡崎方面から登る道の二通りがある。前もって父に調べてもらった結果、岡崎公園から長楽寺へ抜けて、門前を左折してあとはひらすら山頂を目指すルートを採用することにした。長楽寺の前を通過して約二十五分で青蓮院の門前に出る。
この日は久しぶりに父も同行することになった。以前は私の史跡巡りによく付き合ってくれたが、八十を越えてさすがに私のペースについて来られなくなってきた。今回はたかだか三十分足らずの登山であるし、東山山頂に登るのもこれが最後の機会かもしれないということで、同行してくれることになった。
父は余程嬉しかったらしく、将軍塚で会う人ごとに
「下から登ってきましてん。」
「今年で八十六になります。」
と言い触らす。それを聞いた相手は
「ほーっ」
と感嘆し、決まって「お若いですね」というものだから、有頂天であった。
青龍殿は、国宝青不動を祀る建物で、清水寺の舞台の4・6倍の広さを誇る大舞台が新設されている。ここから京都市内が一望できる。京都が山に囲まれた盆地であることや、御所がかなり広い場所を占めていることなどが一目でわかる。
円形の古墳状の塚には、桓武天皇が和気清麻呂を伴ってこの地に至り、京都を都とすることを決めたという言い伝えが残る。この場所に将軍(坂上田村麻呂)の像に甲冑を着せたものを埋め、都の安泰を祈ったと伝えられる。将軍塚の周りには東郷平八郎や黒木為禎といった武人が植えた松がある。
東郷(平八郎)手植えの松
黒木(為禎)大将手植えの松
また庭園には大隈重信が植樹を記念した石碑もある。傍らの松は、大隈の手植えの松から四代目という。
大隈重信公 手植松
さて、今回将軍塚を訪問した目的は、その近くにある井上世外(馨)詩碑を訪ねることにあった。将軍塚青龍殿から少し離れた山頂公園から清水寺方面に下る道の途中にこの石碑は立っている。
井上世外詩碑
井上世外詩碑と、この後紹介する伊藤博文詩碑は、二人が明治四十二年(1909)、木戸孝允の三十三回忌列席のために上京し、その際に作詩した七言絶句を石碑にしたものである。
天懸海外三千界
月満人間幾百州
侯爵井上世外
将軍塚と青龍殿
将軍塚へは、清水寺の境内を経由する道と岡崎方面から登る道の二通りがある。前もって父に調べてもらった結果、岡崎公園から長楽寺へ抜けて、門前を左折してあとはひらすら山頂を目指すルートを採用することにした。長楽寺の前を通過して約二十五分で青蓮院の門前に出る。
この日は久しぶりに父も同行することになった。以前は私の史跡巡りによく付き合ってくれたが、八十を越えてさすがに私のペースについて来られなくなってきた。今回はたかだか三十分足らずの登山であるし、東山山頂に登るのもこれが最後の機会かもしれないということで、同行してくれることになった。
父は余程嬉しかったらしく、将軍塚で会う人ごとに
「下から登ってきましてん。」
「今年で八十六になります。」
と言い触らす。それを聞いた相手は
「ほーっ」
と感嘆し、決まって「お若いですね」というものだから、有頂天であった。
青龍殿は、国宝青不動を祀る建物で、清水寺の舞台の4・6倍の広さを誇る大舞台が新設されている。ここから京都市内が一望できる。京都が山に囲まれた盆地であることや、御所がかなり広い場所を占めていることなどが一目でわかる。
円形の古墳状の塚には、桓武天皇が和気清麻呂を伴ってこの地に至り、京都を都とすることを決めたという言い伝えが残る。この場所に将軍(坂上田村麻呂)の像に甲冑を着せたものを埋め、都の安泰を祈ったと伝えられる。将軍塚の周りには東郷平八郎や黒木為禎といった武人が植えた松がある。
東郷(平八郎)手植えの松
黒木(為禎)大将手植えの松
また庭園には大隈重信が植樹を記念した石碑もある。傍らの松は、大隈の手植えの松から四代目という。
大隈重信公 手植松
さて、今回将軍塚を訪問した目的は、その近くにある井上世外(馨)詩碑を訪ねることにあった。将軍塚青龍殿から少し離れた山頂公園から清水寺方面に下る道の途中にこの石碑は立っている。
井上世外詩碑
井上世外詩碑と、この後紹介する伊藤博文詩碑は、二人が明治四十二年(1909)、木戸孝允の三十三回忌列席のために上京し、その際に作詩した七言絶句を石碑にしたものである。
天懸海外三千界
月満人間幾百州
侯爵井上世外