史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

御所 Ⅷ

2017年06月03日 | 京都府
(宗像神社)


宗像神社


花山院邸跡

 今はだだっ広い空間が広がる御所であるが、その昔、公家の屋敷が軒を並べていた。概ね、その位置も特定されているので、そのうちいくつかを紹介しよう。
 宗像神社は、花山院家の邸内にあった神社である。邸宅が廃された後は、社殿のみが残った。花山院家からは、幕末花山院家厚、家理という父子を生んだ。家厚は安政六年(1859)、鷹司輔煕が安政の大獄で失脚すると、七十一歳の高齢で右大臣に任じられ、文久二年(1862)までその任にあった。その子、家理は安政五年(1858)の廷臣八十八卿列参の一人。慶応四年(1868)一月には家理を盟主と仰ぐ一隊が宇佐の御許山で挙兵したが、短期間で鎮圧されている。

(貽範碑)
 貽範(いはん)碑は、賀陽宮邸跡に建てられている。賀陽宮は、伏見宮邦家第四王子朝彦親王といい、孝明天皇の信任が厚く、還俗して中川宮と称して天皇を扶助した。邸宅の庭にあった榧の巨木に因んで賀陽宮と称した。しかし、尊攘派が力を持つと公武合体派の宮は敵視され、維新後には徳川慶喜との関係を疑われ広島に移された。
 手元の漢和辞典によれば「貽範」とは「手本を残す」という意味だそうである。


貽範碑

(西園寺邸跡)
 西園寺公望を生んだ西園寺家の邸宅跡である。同じ場所に邸内社であった白雲神社も残っている。西園寺公望は、この場所で家塾立命館を開設した。立命館大学の前身である。


西園寺邸跡


白雲神社

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東山七条 Ⅱ

2017年06月03日 | 京都府
(法住寺)


此付近 坂本龍馬北添佶摩など
土佐志士寓居跡

 三十三間堂の南側、法住寺の駐車場の前に、歴史地理史学者中村武生氏の手により、最近石碑が建てられた。幕末、この付近に坂本龍馬ら土佐出身の志士が住んでいたことを示すものである。龍馬はこの辺りで妻となる楢崎龍と出会ったとされる。龍の母貞と妹君江がこの場所で賄いの仕事をしていたという。北添佶摩の書簡にも、佶摩が龍馬とこの付近の住宅で暮らしていたことが記されている。元治元年(1864)の池田屋事件の際には、京都守護職などの役人が踏み込み、貞や君江が連行された(間もなく釈放)。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

霊山・高台寺 Ⅵ

2017年06月03日 | 京都府
(伊藤博文詩碑)
 井上馨の詩碑を訪ねた後、今度は伊藤博文の詩碑を探して山の中をさまよったが、結局出会う前に高台寺の広大な霊園に出てしまい、仕切り直しすることになった。最短距離を進むことにし、正法寺の墓地を突き抜け、そこから山を登った。父はここで登山を断念したが、そこからわずか七~八分進んだところで、目の前に石碑が現れた。井上馨の詩碑と同様、木戸孝允の三十三回忌に寄せてつくられた漢詩が刻まれている。


伊藤博文詩碑

追懐往事感無窮三十三年夢寐
中顔色威容今尚記名声輿望
古誰同蕭曹房杜忠何比蜀相楠
公義暗通墓畔題詩新緑桜山
鵑叫尽血痕紅 祭松菊公墓

(幕末志士葬送の道)


天誅組総裁松本謙三郎奎堂大人顕彰碑

 神葬墓地に、平成二十八年(2016)九月二十五日、天誅組総裁松本奎堂顕彰碑が建てられた。この日は奎堂の命日であった。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする