史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

鳥取 Ⅲ

2017年06月11日 | 鳥取県
(大雲院)
 前回池田慶徳の墓を見逃してしまった。松江から福井へ向かう途中、鳥取で大雲院に立ち寄った。


大雲院

 池田慶徳は、最初、東京の弘福寺に葬られ、のちに多磨霊園に改葬されたが、平成十五年(2003)、鳥取市大雲院に改葬された。


池田家之墓


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琴浦

2017年06月11日 | 鳥取県
(赤碕)


赤崎台場跡

 赤碕台場跡は、鳥取藩が文久三年(1863)から元治元年(1864)にかけて海岸防備の強化のため因幡国三カ所(浦富・賀露・浜坂)と伯耆国六カ所(橋津・由良・八橋・赤崎・淀江・境)に設置した台場の一つである。西洋式の城塞プランが採り入れられ、半円型となっている。



 何という花か名前は分からないが、海に向かって咲き乱れる可憐な花が印象的であった。


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日吉津

2017年06月11日 | 鳥取県
(養光院墓地)
 昨年、鳥取県内を走ったときも、日吉津(ひえづ)の養光院を訪ね、そこで須山萬(すやまよろず)の墓を探したが、実はそこでは墓地すら見付けることができず、撤退することになってしまった。改めて須山萬の墓の場所を調査し、養光院墓地は、養光院から数百メートル東へ行った場所にあり、そこに須山萬の墓があるが分かった。今回は間違いなく養光院墓地に行き着くことができた。

 須山家は数代の医家であった。萬は、十七歳で藩儒の正墻薫や江戸の名儒塩谷宕陰の教えを受け、のちに藩の周旋方に任じられ、勤王のため東西に奔走した。江戸に出て長州藩留守居役の僕(しもべ)と称して活躍しているところを、元治元年(1864)幕府のために捕えられた。一旦は逃げたが、再び捕えられ、討幕計画に加わったという罪で伝馬町の獄に投じられた。慶応元年(1865)、三月六日、斬首。年二十四。明治三十一年(1898)正五位を贈られた。墓碑側面に刻まれている漢詩は、萬が生前、父啓蔵に寄せたものである。


義芳院萬岳遜處居士(須山萬の墓)

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出雲

2017年06月11日 | 島根県
(出雲大社)
 出雲といえば、何と言っても出雲大社である。幕末維新の関連史跡というわけではないが、せっかくなので立ち寄ることにした。といっても、私が出雲大社を訪れたのは、午前五時半にもならない早朝だったので、広い境内には散歩を楽しむ人がまばらに見えるだけであった。神楽殿の脇の道を抜けると、日御碕へと通じている。


出雲大社拝殿

(宇龍港)
 今回、松江市内に宿をとり、早朝五時前に出発して目指したのは、宇龍港という辺鄙な漁港である。明治九年(1876)十月、萩で反政府の挙兵を起した前原一誠、奥平謙輔らは政府軍の手によって鎮圧されると、東京に向けて萩を出港し、途中悪天候のために宇龍港で停泊した。そのとき、地元民が県令佐藤信寛に通報したことから捕縛され、首謀者は全員斬首された。
 これまで佐賀の乱の江藤新平が捕縛された甲浦を訪問した私としては、ずっと前から一度は宇龍を訪ねたいと念願していたが、ようやく実現することができた。


宇龍港

 宇龍港は、鴎が群生していることを除けば、何の変哲もない漁港である。強いて特徴をいうとすれば、不釣合いなほど立派な日御碕(ひのみさき)神社という神社が存在していることくらいであろうか。


日御碕神社

 司馬遼太郎先生の「翔ぶが如く」(文庫本第七巻「衝撃」)によれば、明治九年(1876)十一月四日、「横山俊彦とその若党白井林蔵が、けもののように縄でからめとられ、もっこに入れられて松江警察署にはこばれてきた」。これを知った長州藩出身の島根県県令佐藤信寛は、同じく長州人である属官清水清太郎に命じ、船内に潜伏している前原らに接触させた。このとき清水は、「わが長州の士、弱かつ鈍といえども、いまだかつて一人も鳥獣の扱いを受けた者はおらぬ」と発言し、船中に向け佐藤県令と自分の手紙を届けさせた。前原は清水の説得に応じ船から出てきた。前原は、東京で明治政府の専制を批難することを望んだが、佐賀の乱の前例に従い、彼らの身柄は萩に戻され、そこで一週間ほどの審理の結果、前原以下八名が斬罪、終身懲役が六十四名という判決が下された。刑は同年十二月三日に執行された。

(ふれあいセンター)


前原一誠之碑

 この地で前原一誠が捕縛された史実を示すものは、ふれあいセンターの横の階段を上がったところにある、小さな石碑のみである。傍らにマジックインキで「日本で唯一の前原一誠卿を偲ぶ石碑」を書かれていたが、確かにそのとおりであろう。
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安来

2017年06月11日 | 島根県
(常福寺)
 山陰道鎮撫総督より切腹を要求された松江藩家老大橋筑後は、常福寺においてその時を待った。しかし、藩主松平定安の奔走で、死を免じられ、寸前で救われた。


常福寺

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隠岐

2017年06月11日 | 島根県
(西郷港)
 隠岐の島は、島根沖約五十キロメートルに浮かぶ島嶼である。松江市内からバスで揺られること三十分余りで、七類という港に着く。そこからフェリーで片道二時間半(高速船であれば一時間四十分ほど)で島後の西郷港に至る。決して近いとは言えない距離である。
 二等船室は片道二千九百二十円。連休中ということもあって、かなり人は多かったが、何とか一人分の横になるスペースを確保することができた。事前に隠岐汽船に問い合わせたところ、
「特に予約しないでも乗り損ねることはありません」
ということだった。ほとんど船が揺れることはなかったが、船に滅法弱い私は酔い止め薬を飲用して万全を期した。
 隠岐の島は、大小百八十の島から成る群島を指すが、このうち大きな島は、四つのみで、今回私が訪れたのは北方に位置する「島後」と呼ばれる島である。直径二十キロメートルのほぼ円形をしており、だいたい「五時」の方向に西郷港がある。ここでレンタカーに乗って島の史跡を訪ねる。その日の午後三時過ぎのフェリーで戻ることにしていたので、島での活動時間はわずかに三時間半。一刻の遅滞も許されない。
 レンタカーの店舗から歩いても数分という場所に隠岐騒動の石碑が建てられている。これが最初の史跡である。


フェリーくにが


隠岐騒動勃発地

 この地で「騒動」が起こったのは、慶応四年(1868)三月十九日。島民三千人が蹶起し、松江藩の役人を追い出して島民による自治政府が樹立 した。島民は藩の役人に餞別として米、味噌、酒を贈ったという、優しい「革命」であった。
 この場所は、隠岐代官所(陣屋)のあった場所で、維新後は隠岐県庁、鳥取県隠岐出張所、島根県隠岐四郡役所、隠岐島庁、隠岐支庁等が置かれた。隠岐騒動の際には、この陣屋の攻守を巡って、島民と代官所、松江藩兵との間に激戦が繰り広げられた結果、郡代が追放され、藩兵が引き揚げることとなった。島民はこの陣屋を中心に会議所、総会所と称する自治機関を設けて政権を確立した。明治二年(1869)二月、隠岐県設置とともに政権は明治政府に引き渡された。
 ここを起点に島内の隠岐騒動関連史跡を回ることとしよう。

(乃木ハウス)


乃木ハウス

 西郷の集落に乃木希典が泊ったといわれる住宅が残されている。

(西郷小学校)
 西郷小学校の校庭に隣接して、広い墓地がある。その真ん中辺りにロシア人墓地がある。
 この墓は、日露による日本海海戦の際、漂着したロシア軍人八人の遺体をこの地に埋葬して供養したものである。建立したのは、隠岐國在郷軍人会。


露国軍人墓

(中村)


中沼了三肖像(隠岐郷土館蔵)

 中沼了三の肖像画が隠岐郷土館に残されている。鳥羽伏見の戦いの際の出陣の姿を描いたもので、征討代将軍仁和寺宮から賜った陣羽織を着用し、浅見絅斎の太刀を手にしている。

 島後の中村という集落が中沼了三の出身地である。白鳥海岸展望台から南下していくと、道沿いに「中沼了三顕彰碑」と書かれた案内板が建っており、それを見逃さなければ、ここに行き着くことはさほど難しくない。ここは中沼了三の生家である。碑の近くに、奈良の十津川高校の同窓会による植樹などを見ることができる。


中沼了三先生顕彰碑

 中沼了三は、京都に遊学し、崎門学を極め、師の鈴木遺音の後継者となり、塾を開いたが、その先鋭な主張が幕末に時勢に合致し、憂国の志士が競ってその教えを請うた。維新後は新政府の参与参謀となった。
 この石碑の建立は、昭和五十一年(1976)、中沼了三先生顕彰会によるものである。

(玉若酢命神社)


玉若酢命神社

 玉若酢(たまわかす)神社は、隠岐の総社として創建された古社で、島の開拓にかかわる神と考えられている。現在の本殿は、寛政五年(1793)の建築で、隠岐造といわれる様式である。樹齢千年以上という杉の巨木が目を引く。


隠岐家住宅

 玉若酢神社に隣り合って、茅葺の隠岐家住宅がある。母屋の隣は宝物展示室となっており、奈良時代の駅鈴や光格天皇から下賜された唐櫃、ラフカディオ・ハーンの遺品などが展示されていて、受付の女性が熱心に説明をしてくれる。私の興味は母屋に残された隠岐騒動の傷跡であった。説明が途切れた瞬間を見計らって、刀痕を見ることができるか尋ねたところ、母屋自体は生活空間となっているので見学はできないが、刀痕は見学が可能という。早速、母屋の方に回って隠岐騒動の際の刀痕、弾痕を見学させていただいた。


隠岐騒動の際の刀痕

 慶応四年(1868)五月一日、松江藩軍十数人が隠岐家を襲った。当時隠岐家の当主、隠岐有尚は自治政府の会議所長老を務めていた。大黒柱に刀痕、中戸に火縄銃による弾痕が残されている。


弾痕

(水若酢神社)


水若酢神社

 水若酢(みずわかす)神社は、隠岐一の宮ともいわれる。本殿は、寛政七年(1795)二建てられたもので、妻飾りには鯉と波をかたどった美しい彫刻が施されている。水若酢神社の宮司は、忌部(いんべ)氏。幕末の当主忌部正弘は隠岐騒動における尊王派正義党のリーダー格であった。


私塾膺懲館跡

 水若酢神社の鳥居をくぐって右手に膺懲館跡を示す石碑が建てられている。
 膺懲館は、京都で中沼了三から崎門学の教えを受け、尊王攘夷に燃えて帰国した中西毅男(山田出身)が養父中西淡斎を講師として協力を得、島の若者を集めて隠岐国を外夷から護るために文武の道を教授した私塾である。ここで学んだ若者らは、その情熱を慶応四年(1868)の隠岐騒動に傾注した。建物は維新後、郡学校として使われ、明治三十年(1897)頃まで存続していた。

(隠岐郷土館)
 水若酢神社の東隣に隠岐郷土館がある。この擬洋風木造建築は、西郷港近くの松江藩陣屋跡に隠岐四郡町村連合会が、明治十八年(1885)に建築した旧周吉(すき)郡外三郡役所庁舎を、昭和四十五年(1970)に移築したものである。
 郷土館の展示は、岩石や化石、貝の標本、考古資料などが並ぶが、何といっても隠岐騒動のコーナーに注目である。


隠岐郷土館


村上寅之助之墓

 隠岐騒動関係展示の一角には、明治元年(1868)五月七日に死亡した村上寅之助の墓が置かれている。室内展示で墓石を見たのは初めてであるが、本物なのかレプリカなのか判然としない。この年月日は、松江藩の武力反攻にあって、隠岐自治政府が一時解散させられた時期に一致する。その時の犠牲者と思われる。


隠岐騒動関係の展示

 いずれも隠岐騒動の指導者。右は横地官三郎、左は井上甃介の写真と紹介である。

(白鳥海岸)


白鳥海岸

 島の北端に白鳥海岸と呼ばれる美しい海岸がある。地質学的にも興味深いものらしいが、全くの専門外であり、取り敢えずは景色を楽しむしかない。今回の隠岐の旅では、一切観光地らしい場所は訪問しなかったし、土地のうまいものも何も口にしなかったが、せっかくここまで来てそれも寂しいので、展望台から絶景を楽しむことにした。ゴールデン・ウィークというのに、この日この時間にこの場所に来た観光客は私一人だけであった。

 西郷港の売店で松本侑子著「島燃ゆ 隠岐騒動」(光文社文庫)を購入した。隠岐騒動にについて詳述した小説である。本来、これを読んでから隠岐を訪ねた方が良かったかもしれないが、まずは一読してみたい。

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