史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

福井 Ⅷ

2017年06月17日 | 福井県
(足羽山招魂社)


足羽山招魂社


西南戦争殉難者碑

 山頂には足羽山招魂社が建てられている。当初は禁門の変の福井藩犠牲者十七名と戊辰戦争の戦死者十三名の霊を慰めるために建立されたもので、その後、西南戦争、日清日露戦争の犠牲者も合わせ祀ることになった。境内に西南戦争殉難者の碑を見つけた。説明によると越前・若狭からの出兵のうち百五十人もの戦死者を出していたという。


岡島佐三郎碑

 西南戦争に従軍し、戦死した岡島佐三郎の供養碑である。


死事十二人碑

 戊辰戦争で戦死した福井藩士十二人の慰霊碑である。

(瑞源寺)


瑞源寺


機業碑

 機業碑は、福井県の絹織物業の発展に貢献した三宅丞四郎の顕彰碑。瑞源寺には三宅丞四郎の墓もあるらしいが発見に至らず。


鷗波富田先生墓

 富田鷗波(おうは)は天保七年(1836)の生まれ。福井藩士。江戸で安積艮斎、安井息軒に学び、帰藩して藩校明道館で教授を務めた。明治五年(1872)福井県初の新聞「撮要新聞」を発行した。明治十二年(1879)、明新中学校校長。明治四十年(1907)没。七十二歳。

(妙観寺)


妙観寺


智遊童女霊(橘曙覧 三女 健子の墓)

 幕末の歌人橘曙覧三女健子の墓である。四歳の時、天然痘で亡くなった健子の死を悲しみ、曙覧は側面に自筆の墓銘を刻した。時を隔てて、娘を亡くした親の悲しみが伝わる墓碑である。

今とし四歳にて身みまかりける
むすめ健子がなきがらを
此処にをさめて
かしのみひとりはいかで
おくつきをならべて父も
ここにすみ身ぞ 橘尚事

(福井市立郷土歴史博物館)


福井市立郷土歴史博物館


松平春嶽公像

 福井市立郷土歴史博物館は、その昔、足羽山にあったらしいが、平成十六年(2004)に現在地である宝永三丁目に移ってきたそうである。確かに私がこの近所に住んでいた四十年前、このような施設はここになかった。時間があれば、ゆっくり展示を拝見したいところであったが、今回は時間がなかった。建物の前の松平春嶽像の写真を撮影してここを立ち去った。

(こども歴史文化館)


こども歴史文化館

 こども歴史文化館という施設ができたのは、平成二十一年(2009)のことだそうである。建物の前に「吉田東篁先生の碑」が置かれている。


吉田東篁の碑

 碑文によれば、この場所にはかつて吉田東篁の墓があったらしく、その後「東墓地公園」に移転したとされるが、その東墓地公園がどこにあるか分からず、現在墓の行方ははっきりしない。

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福井 Ⅶ

2017年06月17日 | 福井県
(神明神社)
 中根靱負宅跡に近い神明神社の境内に公園が整備されており、その一角に中根雪江の座像がある。


神明神社


中根雪江像

(足羽山)


大久保盤山碑

 大久保盤山は和算家(数学者)。家塾を開いた。安政二年(1855)に藩校明道館が開校すると算科局の教師として活躍した。碑は盤山の生前に建立されたもの。


伴閑山碑

 伴閑山は福井藩士。儒学を学び、家塾で門人を育てた。個人の能力に応じた教授法で知られる。明治十二年(1879)、年六十一で病没。


笠原白翁碑

 笠原白翁は町医師の出身。嘉永二年(1849)、天然痘予防の種痘法を初めて福井にもたらし、除痘館の開設や出張種痘など普及に大きな役割を果たした。


高島鷹洲寿碑

 高島鷹洲は旧福井藩士。明治五年(1872)に学制が公布されると河南小学校の教員となり、その後も永く小学教育に従事した。


杉田定一記念碑

 杉田定一は、福井県初の衆議員議長。この石碑は、地租改正の際、国に強く再調査を要求し、減祖に尽力したことに感謝して、明治十六年(1883)に建立されたものである。

(足羽神社)


足羽神社

 足羽神社ではちょうど結婚式が開かれていて、本殿前では記念撮影の真っ最中であった。
 境内には、天壌無窮碑がある。
 この石碑は、明治天皇の即位礼に参列した福井藩士由利公正が、その時の祭具を邸内に建てた神宝神社に納め、皇室の安泰を祈った。その由来を記録したものである。


天壌無窮碑

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永平寺

2017年06月17日 | 福井県
(火薬局跡)
 先日、坂本龍馬の新たな書簡が発見され、そこに三岡八郎(由利公正)のことが記されていたことから、由利公正のことが俄かに注目を集めている。ついこの間もNHKの番組で由利公正のことを取り上げていて、その中であまり有名とはいえない、火薬局が紹介されていた。今回の福井行では、是非この火薬局跡を訪ねたいと思っていた。


火薬局跡

 永平寺といえば何といっても道元によって開かれた大本山永平寺が有名であるが、個人的には中学生のとき野球県大会の決勝で永平寺中学に敗れたことが記憶に残っている。その後、我が中学校の野球部は優勝の常連校となったが、そのきっかけとなったのがこの時の決勝進出であった。もっとも私は補欠の補欠で、決勝進出には一つも貢献はしていないのだが…。

 松岡神明一丁目の九頭竜川に近い場所に福井藩の火薬局跡を示す石碑が建っている。ちょっと分かりにくい場所である。
ペリーの来航をきっかけにアメリカと和親条約が結ばれると、三岡八郎(のちの由利公正)は藩の命を受けて大銃および火薬の製造掛を命じられた。安政四年(1857)には兵料掛を命じられ、橋本左内らと明道館にておおいに文武の道を講ずるとともに火薬局を松岡芝原用水の開口部近くに設ける計画を進めた。ところが、安政四年(1857)四月二十七日、火薬局が自然爆発を起し、多くの同士を失うことになった。翌年三月にも再度爆発し、火薬局は半焼した。三岡八郎は火薬製造を復興することを建議したが、終に許されることはなかった。この石碑は安政六年(1859)に建てられたものである。

(安泰寺)
 松岡神明町三丁目に位置する安泰寺には、福井藩士佐々木権六の墓がある。もともと佐々木権六の墓は東京青山霊園にあったが、平成二十一年(2009)に故郷の菩提寺である安泰寺に移設改葬されたものである。


安泰寺


佐々木長淳(権六)墓

 佐々木権六、諱は長淳。天保元年(1830)に福井藩士佐々木長恭の長男に生まれた。嘉永六年(1853)より砲術修業と大砲製造調査のため、江戸へ行き、帰って大小銃弾薬御製造掛となり、ついでその頭取となって明道館でその研究を命じられた。福井藩で初めて二本檣の西洋型帆船「一番丸」を造り、藩主松平茂昭もこれに乗った。慶応三年(1867)には柳本直太郎とともにアメリカに留学し、ジョンソン大統領に謁し工場を視察した。帰朝後、兵器、書籍の購入、軍規法の輸入に尽力した。明治二年(1869)、製造局用事となり三インチ砲を造った。翌年、新政府に出仕して工部省勧工寮(のち勧業寮)に勤め、明治九年(1876)にはイタリアの養蚕公会所出張を命じられた。翌年には内務省に転じ、上州新町駅紡績所、青山御所養蚕御用掛などを歴任し、養蚕業の発展に尽くした。明治二十八年(1895)官を辞し、大正五年(1916)死去。年八十七。

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丸岡 Ⅱ

2017年06月17日 | 福井県
(高岳寺)


高岳寺

 前回、丸岡訪問時は、寒さと強風と小雨のために気力が萎えてしまい、断念した有馬家菩提寺高岳寺を真っ先に訪問する。高校サッカーの強豪校丸岡高校のすぐ近くである。


有馬家歴代墓所

 本堂に向かって左手奥に有馬家歴代の五輪塔が生前と並んでいる。幕末までは日向時代の直純、康純や初代丸岡藩主清純、三代孝純の墓のみであったが、明治四十三年(1910)に延岡から殉死者十三人の墓を、大正五年(1916)には東京上野の本覚院から江戸で亡くなった藩主の墓を高岳寺に移した。藩主の墓の前には、奥方の壮麗な墓も置かれている。福井大震災(昭和二十三年(1948))によって倒壊したが、その後復旧されて今日に至っている。


有馬徳純公の墓


有馬温純公の墓

 六代藩主有馬徳純は、高田藩主榊原政敦の四男に生まれ、文化三年(1820)、有馬藩主の養子となった。文化十三年(1830)、養父誉純の隠居に伴い家督を継いだ。天保八年(1837)、三十四歳で死去。あとを婿養子の温純が継いだ。

 七代藩主温純は、五代藩主有馬誉純の子、戸田純祐の子。養父徳純の死去により家督を継いだ。安政二年(1855)、二十七歳の若さで死去。温純のあとは、播磨山崎藩から養子に入った道純が継いだ。道純は、寺社奉行や奏者番、若年寄、老中といった重職を歴任し、幕末の幕府を支えた。なお、道純の墓は谷中霊園にある。


和翁先生之墓(有馬徳太郎の墓)

 有馬徳太郎(和翁)は、丸岡藩藩儒。城下霞町に日新塾を開き、漢学を教授した。明治八年(1875)没。

(台雲寺)


台雲寺


合屋文仲の墓

 台雲寺には、蓑笠庵梨一という江戸中期に活躍した高名な俳人の墓がある。蓑笠庵梨一は、縁あって地方役人として坂井郡下兵庫村(現・坂井町下兵庫)の代官として着任し、その後、丸岡藩主有馬誉純の賓客として招かれ、儒官となった。老いて私塾蓑笠塾を開き多くの門人に学問を教えた。特に晩年には芭蕉の研究に没頭した。
 同じ墓域に丸岡藩医合屋文仲の墓がある。合屋文仲は、維新後、成美堂という私塾を開いた。明治三十八年(1905)、七十四歳で没。

(丸岡城不明門)
 丸岡町野中山王の集落の中に、丸岡城の不明門が移設されている。


丸岡城不明門

(舟寄霊苑)


邨野先生之碑

 舟寄町の舟寄霊園に邨野良郷の墓がある。邨野良郷は、医師、教育者。長崎に留学して医術を学び、三十歳の頃、舟寄村に移住して開業した。医業の傍ら、邨野塾を開き、近隣の子弟を教えた。明治十八年(1885)、七十歳にて死去。

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勝山

2017年06月17日 | 福井県
(勝山市役所)
 福井の人は勝山のことを「かっちゃやま」と呼ぶ。
勝山は雪の多い福井県でも有数の豪雪地帯である。今でも語り草になっている「三八豪雪」(昭和三十八年)のとき、除雪して積み上げられた雪の上を歩いていて躓き、何かと見たら電信柱の頭だったという、ウソのような話が伝わる。
人口数万人という山奥の小都市に私は、中学生のとき一度訪れたことがある。勝山には県内有数のスキー場が複数存在している。勝山でのスキーが、初めてのスキー体験であった。
 覚えていることといえば、スキー場の窪みに入ってしまい、そこから這い出るのに半時間くらいかかってしまったことである。私以外に見ず知らずのオジサンもその蟻地獄に陥っており、そのオジサンと無言で悪戦苦闘したのが不幸なスキー初体験であった。
社会人になった頃、世はスキー・ブームで、会社の行事や友人たちによって幾度となくスキーに連れていかれたが、今一つスキーを好きになれなかった根底には、勝山での不幸な原体験があったような気がしてならない。


勝山城址之碑

 勝山藩は元禄年間以降、小笠原氏の城下であった。藩庁のあった勝山城には天守閣は築造されず、明治になって破却されたため、遺構は見事なほど何も残っていない。市役所の入口に城址碑があるのみである。
 なお、勝山市の中心部から離れた平泉町に勝山城博物館という施設があり、立派な城郭状の建物を備えているが、実際には勝山城とは何の関係もない。

(開善寺)


開善寺

 開善寺は、勝山藩主小笠原家の菩提寺である。元禄四年(1691)、小笠原貞信が美濃高須から勝山に移ってきたことに伴い、勝山に移ってきた。墓域は三段に仕切られ、正面の最上段に歴代藩主の墓が並ぶ。向かって左から七代長貴、初代貞信、二代信辰、三代信成、四代信胤、五代信房、六代長教、そして一男右が八代長守のものである。
 西側には家族の墓が並んでいる。


小笠原家墓所


小笠原長守の墓

 小笠原長守は、幕末の勝山藩主。天保十一年(1840)、家督を継いだ。天保十四年(1843)には藩校成器堂を開設した。嘉永元年(1848)には軍制改革し、専売制を導入し、藩政改革に成功した。しかし、幕命により河川工事普請を務め、さらに安政の大地震により藩邸が崩壊したため出費が重なり、藩財政は逆戻りしてしまった。長守は家老林毛川を罷免した。元治元年(1864)には幕府の大阪加番に登用された。戊辰戦争では新政府側につき、明治後は藩知事にも任じられた。明治二十四年(1891)五十八歳で死去。

(神明神社)
 以下、長守が開いた藩校成器堂の遺構を紹介する。最初は神明神社に移築された成器堂講堂である。


神明神社


旧成器堂講堂

 成器堂は、天保十二年(1841)、勝山城外追手筋に建てられた藩校で、もとは読書堂といわれ、藩医秦魯斎の熱意と魯斎の進言を取り入れた家老林毛川の努力により実現した者である。
この建物は、明治四十四年(1911)、現在地に移築された講堂である。瓦には勝山藩主小笠原家の家紋「三階菱」があり、外観はほぼ当時のままである。

(成器堂門と土蔵)
 この門と土蔵は、成器堂の遺構である。明治に入ると成器堂の建物と建学精神は成器小学校に引き継がれたが、古くなった藩校の建物は、新学舎建設に際し解体された。その際、今井家が門と土蔵を買い取り、この地に移した。


成器堂門と土蔵

(成器堂演武寮)
 この建物は藩校成器堂演武寮である。明治十二年(1879)、大火により布市の道場が焼失した時、この建物を買い取り移築したものである。藩校の建物が、これだけ現存している例は、全国的に見ても珍しいだろう。


成器堂演武寮
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大野 Ⅵ

2017年06月17日 | 福井県
(託縁寺)


憲寛院九鱗居士
(廣田憲寛の墓)

 前回見逃してしまった託縁寺の廣田憲寛の墓を掃苔。ついでに観光協会を訪ねて、二年前にお世話になった観光ボランティアの皆さんにご挨拶だけでもと思ったが、例によって観光協会がオープンする遥かに早い時間だったため、当然ながら扉は閉じられたままで、人影もなかった。

(宝慶寺)
 元治元年(1864)十二月七日、本木村を出発し、宝慶寺峠へ向かった。天気は晴れであったが、五尺ほどの積雪があった。宝慶寺峠は標高約六百四十メートル。峠下の宝慶寺の名に由来するものである。


宝慶寺


橋本家住宅

 宝慶寺の門前村の庄屋橋本家の住宅が、宝慶寺の前に移築保存されている。国の重要文化財に指定されているが、茅葺の屋根が半分崩れ落ちており、修復の手が急がれる。この建物は江戸時代中期十八世紀前半頃の建築とされる。
 天狗党は、宝慶寺とその近在に分宿し、そろって碑田川の谷に沿って池田宿へ進んだ。

(杉本家)


杉本家

 天狗党の先触れは、木本の杉本弥三右衛門家に行き「今晩御宿下されたく、何の御構えも要りませんから、只風呂さえあればよろしく、是非お願いしたい」と申し入れをし、了解を得た。元治元年(1864)十二月六日夜、浪士隊は本木村に到着し、大庄屋杉本家を本陣とし、約五十戸あったという全戸に分宿した。厳寒の雪の中、野営を重ねて来た浪士一行は、ここで入浴できたことで大いに生気を取り戻したことであろう。
 この時、大野藩は町年寄の布川(ぬのかわ)源兵衛を使者とし杉本家に派遣した。「大野城下に入らず、宝慶寺峠を越えて、池田から今庄を抜ける道が最短距離なので、この道を通って欲しい」と繰り返し説得した。浪士隊は布川の誠意に納得し、宝慶寺峠越えを選んだ。

 本木の集落で元庄屋の杉本家を探していると、一人の老人がと出会った。「庄屋の杉本家を探している」と事情を話すと、「それはうちだよ」と教えてくれた。庄屋の家らしく、周囲を堀で囲った重厚な住宅である。


(殉難碑)


大野一揆殉難碑

 本木の集落から大野市街に向かう途中に蝋燭の炎を象った殉難碑がある。これは明治六年(1873)、三月に起こった大野一揆(みのむし騒動)で処刑された農民の殉難の碑である。
 明治初年の神仏分離、廃仏運動に反発した、仏教信仰が盛んな大野の民衆は不安にさらされた。これを見た友兼村専福寺の金森顕順は、上据(かみしらがみ)村最勝寺の柵専乗と相談して、地元豪農竹尾五右衛門らと語らい、門徒を集めて連判状に血判をさせた。このことが役人に探知され、顕順と五右衛門が捕えられた。これを知った三千余の農民は、「南無阿弥陀仏」のむしろ旗を揚げて、本町の敦賀県庁出張所に押し寄せた。役人や大商人への日頃の不平不満が爆発して、三日間に及ぶ大暴動となった。最終的に、政府の策略により、実効性のない空手形同然の書付を渡され、騒動は終息した。政府は直ちに兵力をもって暴動を主導した農民を捕え、牢屋に押し込めて厳しい吟味を行った。金森顕順、柵専乗、竹尾五右衛門、高橋太右衛門、末吉町桶屋治助の斬刑、穴田與八郎は絞罪となり、同年四月四日に刑が執行された。ほかに農民十八名が懲役十年から一年の刑を申し渡された。この石碑は、明治十四年(1881)に建立されたもので、「南無阿弥陀仏」と記されたその両脇に、顕順、専乗、竹尾五右衛門らの法名が刻まれている。




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大野 Ⅴ

2017年06月17日 | 福井県
(大野城)



大野城

 前回の大野訪問から二年が経過した。三度目の大野である。これまで麓から見上げただけだった大野城にもチャレンジした。柳廼神社脇から登山道をゆっくり歩いて二十分程度で亀山山頂(標高二四九メートル)に行き着く。


土井利忠像

 山頂近くに大野土井家七代目藩主土井利忠の銅像が立っている。利忠は在位四十四年(文政元年(1818)~文久二年(1862))。藩政改革に取り組み、財政再建を成し遂げたほか、藩校明倫館や洋学館の開設、西洋医学・砲術の採用、藩店大野屋の展開、蝦夷地探検と開拓、藩船大野丸の建造など、次々と事業に着手した。全国的な知名度は低いが、幕末を代表する名君の一人である。


大野城からの眺望
シバザクラ祭り

 山頂からは大野市街を一望することがきる。反対側は、対照的に建物のない、田園風景である。ちょうど「シバザクラまつり」の真っ最中で、水田の畦道は鮮やかなピンク色で覆われていた。思わず声を挙げたくなるほどの美しさであった。

 登山道途中には大野丸の碑がある。大野丸は安政年間に大野藩が建造した洋式帆船で、蝦夷地開拓と交易のため蝦夷地との間を幾度も往復した。しかし、元治元年(1864)八月、根室沖で座礁沈没。その直前に蝦夷地開拓を主導した内山隆佐も世を去っており、これ以降、大野藩の蝦夷地開拓の試みは頓挫した。


大野丸の碑

(柳廼神社)
 柳廼(やなぎのやしろ)神社は、明治十五年(1882)の創建。土井利忠を祀る。境内に利忠を支えた三人の家老の顕彰碑が建立されている。


柳廼神社


内山良休翁の碑

 内山良休は土井利忠を支えた家老の一人。経済に明るく、地場産業奨励に尽力し、藩店大野屋を大阪等に三十店余開き、直接販売を通して利益を上げ、藩財政の立て直しを図った。維新後は、良休社を設立して士族の生活を支えた。私財を投じて大野‐福井間の道路の改修を実現。


貫斎先生(内山隆佐)の碑

 内山隆佐は蝦夷地開拓、大野丸建造に尽力した。


中村矩倫翁の碑

 中村矩倫も土井利忠を支えた家老の一人。天保十三年(1842)の藩政改革の際には、政務の一切を委任され、士風刷新に尽力し、藩の規律が矯正された。

(結ステーション多目的広場駐車場)
 広瀬病院の目の前、結ステーション多目的広場駐車場が大野藩の開いた洋学館跡である。この場所には大野藩の招いた高名な洋学者伊藤慎蔵の顕彰碑、伊藤の名を慕って藩内外から集まった人々の名前を記録した石碑、それに洋学館跡を示す石碑、以上三つの石碑が並べ建てられている。


伊藤慎蔵先生顕彰碑

 伊藤慎蔵は、文政八年(1825)、長州萩に医師の子に生まれた。嘉永二年(1849)、緒方洪庵の適塾に入り、のちに塾頭を務めた。この頃、慎蔵と名乗った。安政三年(1856)、土井利忠の招きで大野藩洋学館教授として来藩。教育とともに我が国初の気象学翻訳書「颱風新話」など蘭学書訳出など多数を残した。文久元年(1861)、大野藩を辞去し、大阪ついで名塩(現・兵庫県西宮市)で蘭学塾を開いた。明治二年(1870)、大阪開成所にて数学教授、明治四年(1872)には文部大助教を拝命。明治六年(1874)辞職。明治十三年(1880)、東京で病没。年五十五歳。


幕末の大野藩に遊学した人々

 この碑には、安政二年(1855)、伊藤慎蔵が着任して以降、大野藩に遊学した人々の名前が刻まれている。有名なところでは、美濃赤坂の所郁太郎や緒方洪庵の二男三男、緒方平三、緒方四郎らの名前が見える。出身地でいえば、大野藩周辺の福井、丸岡、鯖江、府中、勝山、大聖寺に留まらず、遠く肥前や豊前中津、讃岐高松からの留学生もいた。


大野藩洋学館跡の碑

 土井利忠は、安政三年(1856)、この地に蘭学所を開設し、伊藤慎蔵に蘭学指導を委嘱した。藩士の西川貫蔵、山崎譲らが伊藤を補助した。蘭学所は、のちに洋学館と改称し、原書や辞書も充実していた。大野藩の蘭学は、その砲術訓練や蝦夷地開拓と合わせて全国に知られ、当城下に留学した者は、二十余藩から数十名に及んだ。

(武家屋敷旧内山家)
 洋学館跡から歩いて数分、有終西小学校の向い側に内山家の屋敷が、ほぼ当時のまま復元展示されている。


武家屋敷旧内山家
母屋


内山良休肖像

 内山家は、衣裳蔵、米蔵、味噌蔵を備え、母屋と離れが渡り廊下で繋がれた広壮な住宅である。内山良休と隆佐兄弟を偲ぶために、平成五年(1993)に解体復元したものである。母屋は明治十五年(1882)頃に建築されたもので、現在は瓦葺きであるが、元は板葺きだったことが復元の段階で判明したそうである。また離れは、大正期に建設された数寄屋風書院である。

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池田

2017年06月17日 | 福井県
(善徳寺)


善徳寺

 善徳寺の裏山に「水戸浪士の生墓」と呼ばれる墓がある。
水戸浪士約一千が、木本、宝慶寺を経て池田に入ったのは元治元年(1864)十二月八日のことであった。彼らは東俣から谷口までの沿道十か村に分宿し、善徳寺には小野斌男(藤田小四郎の変名)以下、三十人と馬五頭が止宿した。翌九日、浪士たちは出発に当たって、一夜の歓待を感謝して謡曲数番をうたって別れを惜しんだ。この寺に泊まった浪士のうち、石上庄兵尉藤原政治、篠田利助藤原元治の二人は、神妙な面持ちで住職観意和尚の前に出、申し出た。「二人はいずれ近いうちに死ぬ身である。その時は観意和尚に引導を渡してもらいたいが、それもできまいから、髻(もとどり)を持参したのでこれを遺骨代わりに墓を建て、供養してもらいたい」というと、深々と頭を下げ、紙に包んだ髻を老僧に差し出した。観意和尚は「死を急いではならぬ」と強い口調でたしなめた。彼らの髻は今も寺に伝えられ、「生墓」と呼ばれる墓は、裏山にある。


天狗党の生墓

(大庄屋飯田家)
 東俣(ひがしまた)は、中世越前国今南東郡池田庄の集落の一つで、古くから当地には「池田の三関」と呼ばれた関所が置かれていた(他の二つは、志津原、水海)。
 江戸期は越前国今立郡に属し、初めは福井藩府中本多氏の知行地、幕府領を経て、享保五年(1720)以降、鯖江藩領となった。
 武田耕雲斎らは東俣村の飯田彦治兵衛邸に宿泊した。飯田家は代々庄屋を務める家柄で、教養も高く、尊王の志も厚い人で、耕雲斎と話が弾んだという。浪士隊は、当地で一泊した後、大阪峠を越えて今庄宿へと向かった。


大庄屋飯田家

 飯田家の近くに猩々の杜と呼ばれる、樹齢数百年を越える欅の大木から成る森がある。この森に囲まれて、「猩々の宮」と称する祠がある。飯田彦治兵衛家の鎮守堂である。飯田彦治兵衛家は、文政十一年(1828)から安政六年(1859)までの約三十年間、池田郷の大庄屋を務め、苗字帯刀を許された家柄である。今も長屋門を備えた、格式を感じさせる佇まいである。


猩々の宮

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今庄

2017年06月17日 | 福井県
(明治殿)
 今は「福井県」と一括りにされているが、旧国名でいえば「越前」と「若狭」の二つに分かれる。越前は日本海に面した豪雪地帯である。一方の若狭は若狭湾に面し、比較的温暖な地域である。越前の人は語尾を引きずるような、特徴的な福井弁を使うが、若狭地方は関西弁が主流である。越前と若狭の違いは、現代でも明瞭である。現在は北陸トンネルがその境界であるが、それ以前は木ノ芽峠や板取・二ツ屋に関所が設けられ、人や文化の自由な行き来を阻んだ。今に至るまで越前と若狭で風土や文化が異なるのは、この境界の存在を抜きには語れない。
 今庄は、幾重にも重なる南条山地に位置し、北陸道の難所として知られた。福井から京や江戸へ行き来する人々が最初に宿泊したのが今庄宿であった。今では名物今庄そばが少し有名な山の中の寒村であるが、往時は越前でもっとも繁栄した宿場町であった。


明治天皇行在所御座所間阯

 公家や幕府役人、大名など貴人が宿泊する本陣は、享保三年(1718)に後藤覚右衛門が藩の本陣を仰せつかって以来、後藤家が務めた。後藤家は、福井藩の上領四十三ヵ村の大庄屋として格式も高く、宿場の指導的な地位を占めていた。敷地は間口約十間、奥行き二十七間、建坪は約百坪、部屋数も二十を数え、上段の間(殿様用の座敷)を始め、玄関、御式台、お次の間、お小姓部屋などを備えた広壮な住宅であった。
 明治十一年(1878)十月八日、明治天皇の北陸巡幸の際、行在所となったが、その後、後藤家は移住し、邸宅は撤去された。

 その後、後藤家宅は荒廃したが、これを憂えた篤志家の田中和吉氏が私財を投じて、旧御座所の間に檜造りの覆いを冠して、明治殿と称する建物を建設し、そこに行在所を再現した。
 明治十一年(1878)の巡幸の際、供奉したのは品川弥二郎、徳大寺実則、岩倉具視、大山巌、井上馨、大隈重信、川路利良ら。彼らは近在の宿舎に分宿した。


行在所

(昭和会館)
 田中和吉氏が昭和五年(1930)に脇本陣跡に資材を擲って建設したのが昭和会館である。この建物は、当時としては画期的な鉄筋コンクリート造り三階建てで、社会教育の拠点として建てられた。以来、宿泊のできる研修の場として利用されたが、昭和三十年(1955)から昭和五十年(1975)まで、今庄町役場として使われ、昭和六十二年(1987)以降は今庄地区の公民館となっている。


昭和会館


脇本陣

 今庄宿の脇本陣は、加賀藩が本陣として利用したため、加賀本陣とも呼ばれた。

(若狭屋)
 旅籠屋若狭屋は、今庄宿五十五軒の旅籠屋の中でも規模が大きく、近隣の京藤甚五郎家らと同時期に建てられたものと推定されている。


若狭屋

(京藤甚五郎家)
 京藤甚五郎家は、塗籠の外壁と赤みの強い越前瓦の屋根の上に、卯建(うだつ)が上がっているのが特徴の住宅である。今庄宿は、寛政十一年(1799)と文政元年(1818)の二度にわたり宿の大半が焼失する大火があった。京藤家はその後の天保年間(1830~1844)に再建されたものである。厚い土壁や土戸に周囲が覆われ、燃えやすい木の部分が外に出ないように建てられており、さらに隣家から火が移るのを防ぐ袖卯建のほかに、屋根にも瓦葺き土壁の卯建が設けられるなど、防火を徹底的に追求した構造となっている。
元治元年(1864)、天狗党の一行が宿泊し、当時造り酒屋でもあった当家の酒で風呂を沸かして浴したというエピソードや、彼らが刀傷をつけた柱が残っている。


京藤甚五郎家


天狗党による刀傷

(二ツ屋)


二ツ屋関所跡

 二ツ屋宿は、周囲を山に囲まれた地にあり、江戸時代には福井藩領であった。旧北陸道の宿場であり、また今庄宿からの中間宿駅として発達し、馬十二匹が常備されていた。慶長七年(1602)、宿の西方に関所が置かれ、藩士二名と足軽番士二名が警備した。天明七年(1787)時点の家数は四十六戸、うち旅籠五軒、茶屋五軒と記録されている。幕末には京都方面への旅人が多くなり、何かと問屋は多忙を極めた。明治二十六年(1893)の大火で二十数戸が焼失し、さらに明治二十九年(1896)の北陸線開通により街道の宿場の役割は衰え、人口も減少した。現在は、関所跡や制札場跡に木柱が建てられているだけで、人が住んでいる気配は感じられない。


明治天皇行在所


二ツ屋宿場跡

(板取宿)
 今庄宿をあとにした天狗党一行は、木ノ芽峠を進んだ。途中、板取関所を無事通過し、二ツ屋宿で昼食をとり、雪深い狭い道を木ノ芽峠へと急いだ。


板取宿


板取関所跡

(木ノ芽茶屋)
 板取宿跡の脇の道を上って行くと、今庄365スキー場の入口にたどり着く。このスキー場の名前の由来は、一年三百六十五日スキーができるということではなく(現にゴールデンウィークはさすがにスキー場の営業はしていない)、国道365号線からアクセスするために名付けられたものらしい。因みに福井県民のソウルフード「8番ラーメン」は国道8号線に因んだものである。実はこの日の夕食は、無性にラーメンが食べたくなって、迷うことなく8番ラーメンを選んだ。


木ノ芽茶屋


木ノ芽峠

 スキー場の中央を貫く勾配の急な坂を上って行き、突き当りを左に折れるとほどなく木ノ芽峠である。二匹の犬に激しく吠えかかられた。
 この峠の通行が重視された戦国時代には、この周辺に木ノ芽城、観音丸、鉢伏城、西光寺丸等が配置されていた。
 木ノ芽城跡に約四百年前に建てられたという木造茅葺の平屋がある。関所としての役割を越前藩主結城秀康から仰せつかり、前川家が建てたものである。
 元治元年(1864)十二月十一日、天狗党浪士一行はここを通過している。下半身が雪に埋もれ、上半身だけで泳ぐようにして峠にたどりついたといわれる。

 早朝、出雲大社を見学して宇龍港に出て、そこから引き返して安来、日吉津、琴浦、鳥取を経由して和田山から舞鶴若狭道路を経て小浜、若狭の史跡を回って、最終目的地である今庄へ。長い一日であった。
 今回、福井県の池田、今庄、大野郊外の史跡を回って、筑波山挙兵以来の天狗党の足跡をほぼ踏破することができた。天狗党の西上関係史跡は、茨城県内から栃木県、群馬県、長野県、岐阜県に及び、しかも交通の便が良くない場所が多いため、これを全て回るには相当なエネルギーを要する。初めて筑波山を訪問してから、気が付いたら十七年もの歳月が流れていた。これでようやく一区切りというところだが、実は未だ天狗党関係で行けていない場所が残っている。福井県と岐阜県の県境にある蝿帽子峠である。冬は深い雪に閉ざされる上に、片道三時間以上もかかる難所である。しかも途中、橋のない川を渡らなくてはいけなくて、それなりの装備も必要である。山登りの素人が簡単に挑戦できる場所ではない。どうやって蝿帽子峠行を実現したものか今思案中である。

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若狭

2017年06月17日 | 福井県
(神子)
 小浜市街から北東へ十五キロメートルほど走ると、神子(みこ)という静かな漁村がある。この辺りの海、そして風景は本当に美しい。神子浦は、木戸孝允夫人松子(幾松)の母の出身地である。因みに、福井県が生んだスーパースター五木ひろしは、この隣の美浜町の出身である。

 幾松は、天保十四年(1843)、小浜藩士木咲氏の子に生まれた。嘉永四年(1851)、父の死亡により、母は松子と弟を連れて京都御幸町松原下ルの提灯屋に再嫁した。のち三本木の吉田屋の芸妓竹中かのの妹分として貰われ、九歳で舞妓となり、十四歳のとき、姉の名を襲名して二代目幾松と名乗った。文久元年(1861)、桂小五郎(のちの木戸孝允)と出会い、以後献身的に尽くし、桂の危機を救った。維新後、木戸夫人となった。木戸没後は、木屋町別邸に帰り、剃髪して翠香院と号して亡夫の冥福を祈った。明治十九年(1886)、年四十四で没。


神子

(慶雲寺)


慶雲寺


幾松観音

 神子の集落の慶雲寺に幾松観音がある。昭和五十七年(1982)、幾松の命日に建立されたものである。

(民宿旅館細川)


民宿細川

 母・末子が子供を連れて実家の細川家に戻ったため、幼少の幾松は神子で五年ほどを過ごし、九歳のときに京都に移ったとされる。母方の祖父は医師細川益庵。現在、細川家は、民宿となっている。

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