(足羽山招魂社)
足羽山招魂社
西南戦争殉難者碑
山頂には足羽山招魂社が建てられている。当初は禁門の変の福井藩犠牲者十七名と戊辰戦争の戦死者十三名の霊を慰めるために建立されたもので、その後、西南戦争、日清日露戦争の犠牲者も合わせ祀ることになった。境内に西南戦争殉難者の碑を見つけた。説明によると越前・若狭からの出兵のうち百五十人もの戦死者を出していたという。
岡島佐三郎碑
西南戦争に従軍し、戦死した岡島佐三郎の供養碑である。
死事十二人碑
戊辰戦争で戦死した福井藩士十二人の慰霊碑である。
(瑞源寺)
瑞源寺
機業碑
機業碑は、福井県の絹織物業の発展に貢献した三宅丞四郎の顕彰碑。瑞源寺には三宅丞四郎の墓もあるらしいが発見に至らず。
鷗波富田先生墓
富田鷗波(おうは)は天保七年(1836)の生まれ。福井藩士。江戸で安積艮斎、安井息軒に学び、帰藩して藩校明道館で教授を務めた。明治五年(1872)福井県初の新聞「撮要新聞」を発行した。明治十二年(1879)、明新中学校校長。明治四十年(1907)没。七十二歳。
(妙観寺)
妙観寺
智遊童女霊(橘曙覧 三女 健子の墓)
幕末の歌人橘曙覧三女健子の墓である。四歳の時、天然痘で亡くなった健子の死を悲しみ、曙覧は側面に自筆の墓銘を刻した。時を隔てて、娘を亡くした親の悲しみが伝わる墓碑である。
今とし四歳にて身みまかりける
むすめ健子がなきがらを
此処にをさめて
かしのみひとりはいかで
おくつきをならべて父も
ここにすみ身ぞ 橘尚事
(福井市立郷土歴史博物館)
福井市立郷土歴史博物館
松平春嶽公像
福井市立郷土歴史博物館は、その昔、足羽山にあったらしいが、平成十六年(2004)に現在地である宝永三丁目に移ってきたそうである。確かに私がこの近所に住んでいた四十年前、このような施設はここになかった。時間があれば、ゆっくり展示を拝見したいところであったが、今回は時間がなかった。建物の前の松平春嶽像の写真を撮影してここを立ち去った。
(こども歴史文化館)
こども歴史文化館
こども歴史文化館という施設ができたのは、平成二十一年(2009)のことだそうである。建物の前に「吉田東篁先生の碑」が置かれている。
吉田東篁の碑
碑文によれば、この場所にはかつて吉田東篁の墓があったらしく、その後「東墓地公園」に移転したとされるが、その東墓地公園がどこにあるか分からず、現在墓の行方ははっきりしない。
足羽山招魂社
西南戦争殉難者碑
山頂には足羽山招魂社が建てられている。当初は禁門の変の福井藩犠牲者十七名と戊辰戦争の戦死者十三名の霊を慰めるために建立されたもので、その後、西南戦争、日清日露戦争の犠牲者も合わせ祀ることになった。境内に西南戦争殉難者の碑を見つけた。説明によると越前・若狭からの出兵のうち百五十人もの戦死者を出していたという。
岡島佐三郎碑
西南戦争に従軍し、戦死した岡島佐三郎の供養碑である。
死事十二人碑
戊辰戦争で戦死した福井藩士十二人の慰霊碑である。
(瑞源寺)
瑞源寺
機業碑
機業碑は、福井県の絹織物業の発展に貢献した三宅丞四郎の顕彰碑。瑞源寺には三宅丞四郎の墓もあるらしいが発見に至らず。
鷗波富田先生墓
富田鷗波(おうは)は天保七年(1836)の生まれ。福井藩士。江戸で安積艮斎、安井息軒に学び、帰藩して藩校明道館で教授を務めた。明治五年(1872)福井県初の新聞「撮要新聞」を発行した。明治十二年(1879)、明新中学校校長。明治四十年(1907)没。七十二歳。
(妙観寺)
妙観寺
智遊童女霊(橘曙覧 三女 健子の墓)
幕末の歌人橘曙覧三女健子の墓である。四歳の時、天然痘で亡くなった健子の死を悲しみ、曙覧は側面に自筆の墓銘を刻した。時を隔てて、娘を亡くした親の悲しみが伝わる墓碑である。
今とし四歳にて身みまかりける
むすめ健子がなきがらを
此処にをさめて
かしのみひとりはいかで
おくつきをならべて父も
ここにすみ身ぞ 橘尚事
(福井市立郷土歴史博物館)
福井市立郷土歴史博物館
松平春嶽公像
福井市立郷土歴史博物館は、その昔、足羽山にあったらしいが、平成十六年(2004)に現在地である宝永三丁目に移ってきたそうである。確かに私がこの近所に住んでいた四十年前、このような施設はここになかった。時間があれば、ゆっくり展示を拝見したいところであったが、今回は時間がなかった。建物の前の松平春嶽像の写真を撮影してここを立ち去った。
(こども歴史文化館)
こども歴史文化館
こども歴史文化館という施設ができたのは、平成二十一年(2009)のことだそうである。建物の前に「吉田東篁先生の碑」が置かれている。
吉田東篁の碑
碑文によれば、この場所にはかつて吉田東篁の墓があったらしく、その後「東墓地公園」に移転したとされるが、その東墓地公園がどこにあるか分からず、現在墓の行方ははっきりしない。