(発心寺)
発心寺
発心寺には国学者伴信友の墓がある。伴信友は、安永二年(1773)に父山岸維智(これとも)、母さよの四男に生まれ、長じて藩士伴信富(のぶまさ)の養子となり、藩主酒井忠進(ただゆき)の子守役などを務めた。元来勉学の士であったが、信友は享和元年(1801)、国学者本居宣長の学問に傾倒し、本居太平の計らいにより宣長の没後門人となった。「神社私考」「神名帳考証」などを著し、実証学者として名声を得た信友は、平田篤胤、橘守部、香川景樹と並び、「天保国学四大家」と称された。晩年は小浜藩の国学の基礎を築き、「若狭旧事考」などの郷土誌を編纂するなど、若狭の歴史と文化の発展に足跡を残した。弘化三年(1846)没。
伴信友之墓
伴信友翁之碑
発心寺から近い場所に伴信友の顕彰碑が建てられている。
(きざき旅館)
きざき旅館は、幾松末裔の宿である。即ち、幾松の父、小浜藩士木崎市兵衛の実家である。木崎市兵衛は、幾松が幼少のときに亡くなっており、これを契機に家族は京都に移ることになった。
きざき旅館
発心寺
発心寺には国学者伴信友の墓がある。伴信友は、安永二年(1773)に父山岸維智(これとも)、母さよの四男に生まれ、長じて藩士伴信富(のぶまさ)の養子となり、藩主酒井忠進(ただゆき)の子守役などを務めた。元来勉学の士であったが、信友は享和元年(1801)、国学者本居宣長の学問に傾倒し、本居太平の計らいにより宣長の没後門人となった。「神社私考」「神名帳考証」などを著し、実証学者として名声を得た信友は、平田篤胤、橘守部、香川景樹と並び、「天保国学四大家」と称された。晩年は小浜藩の国学の基礎を築き、「若狭旧事考」などの郷土誌を編纂するなど、若狭の歴史と文化の発展に足跡を残した。弘化三年(1846)没。
伴信友之墓
伴信友翁之碑
発心寺から近い場所に伴信友の顕彰碑が建てられている。
(きざき旅館)
きざき旅館は、幾松末裔の宿である。即ち、幾松の父、小浜藩士木崎市兵衛の実家である。木崎市兵衛は、幾松が幼少のときに亡くなっており、これを契機に家族は京都に移ることになった。
きざき旅館