(泉岳寺つづき)
大觀院神易呑象居士(高島嘉右衛門之墓)
高島嘉右衛門は、天保三年(1832)の生まれ。父は遠州屋(本姓薬師寺)嘉兵衛といった。父とともに江戸で材木商を営んだが、盛岡藩境沢鉄鉱の経営に従事し、金貨密貿易で万延元年(1860)下獄。慶応元年(1865)出獄後は横浜で旅館業、土木建築業で成功を収めた。明治三年(1871)、高島学校(洋学)を創立。新橋・横浜間の鉄道開通式には庶民総代の一人に選ばれた。横浜でガス燈事業を起こし、愛知セメント、北海道炭鉱鉄道会社を興して社長となり、北海道に高島農場を開設した。その後、東京市電鉄社長となった。この間、易者としても名声を得た。長女多摩子は伊藤博文嗣子博邦に嫁した。大正三年(1914)、年八十三で没。

大觀院神易呑象居士(高島嘉右衛門之墓)
高島嘉右衛門は、天保三年(1832)の生まれ。父は遠州屋(本姓薬師寺)嘉兵衛といった。父とともに江戸で材木商を営んだが、盛岡藩境沢鉄鉱の経営に従事し、金貨密貿易で万延元年(1860)下獄。慶応元年(1865)出獄後は横浜で旅館業、土木建築業で成功を収めた。明治三年(1871)、高島学校(洋学)を創立。新橋・横浜間の鉄道開通式には庶民総代の一人に選ばれた。横浜でガス燈事業を起こし、愛知セメント、北海道炭鉱鉄道会社を興して社長となり、北海道に高島農場を開設した。その後、東京市電鉄社長となった。この間、易者としても名声を得た。長女多摩子は伊藤博文嗣子博邦に嫁した。大正三年(1914)、年八十三で没。