史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

土浦 Ⅱ

2017年09月08日 | 茨城県
(善応寺つづき)


聖観音
(佐久良東雄の書)


 善應寺観音堂に掲げられた「聖観音」の草書扁額は佐久良東雄の書である。佐久良東雄は、天保十四年(1843)当時善應寺の住職であった。

(真鍋宿)
 善應寺周辺は、真鍋宿といって土浦宿の北方にあった筑波街道上の宿場の一つである。
 天狗党の田中愿蔵の暴挙といえば、栃木における愿蔵火事が有名であるが、実は元治元年(1864)六月二十一日、真鍋宿も愿蔵隊によって焼失している。被害は甚大で、家屋、土蔵等百四十七棟が焼け落ち、さらに殺害された者二人、負傷三人、奪われた金は三千六十一両余に達した。この事件により田中愿蔵は除名された。


真鍋宿




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

かすみがうら Ⅲ

2017年09月08日 | 茨城県
(田伏)


碩学勤王家宮本中務墓
儒醫 服部本英墓
志士 太宰清右衛門墓
従是西一丁右折約一丁

 かすみがうら市田伏は、宮本主馬之助の出身地である。田伏の民家の前に右の石碑を発見した。この近くに宮本中務、服部本英、太宰清右衛門の墓があることを示している。
 早速、辺りを歩いて探したが、廃校となった小学校の近くで服部本英の墓を発見したに終わった。


(鹿島神社)


鹿島神社

 天狗党に参加した宮本主馬之助の養父宮本中務は田伏村の鹿島神社の祠官であった(かすみがうら市田伏1613)。
 宮本主馬之助は、文政十二年(1829)、水戸市吉田村東台の戸村家次男に生まれた。十六歳の時、宮本中務の養子となった。中務は国学に優れ、近くで塾を開いていた服部本英の漢学に対し、国学の中務と呼ばれていた。水戸城下から遠く離れた田伏でも、尊王攘夷の精神は強く、同志竹内百太郎、岩谷敬一郎、太宰清右衛門らとともに勅諚の返還に断固反対するため長岡に集結し、攘夷の決行を迫って江戸の薩摩藩邸に訴えた。そのため二年余りを牢獄で過ごすことになった。文久二年(1862)十二月、赦されて帰郷した。慶応四年(1868)一月、小石川藩邸に入ると、同年三月、国許の奸徒(市川ら諸生党)追討のため藩地に下り、戦闘に参加した。下総八日市場の松山にて追討戦で勝利を収め、さらに市川残党の捕縛のため江戸に出た。維新後は神官などを務めて、明治七年(1874)、四十五歳で病没。

鹿島神社には、文久元年(1861)に小松崎周助と高崎半助の二名が奉納した算額が保存されている。算額は、和算家が解決した算問の解き方を額に書いて神社仏閣に奉納したものである。茨城県内には関流が多いが、これは太白流である。


田伏鹿島神社算額

 私が鹿島神社を訪れた時、ちょうど夏祭りの最中で、大音声でのカラオケ大会が始まるところであった。そこにカメラを持ったオッサンが出現し、村人には異質に映ったことだろう。ある酔っ払いが「おい、どこのカメラマンや、NHKか」と声をかけてきたので「いや、個人的なものです」と答えて、その場を切り抜けたが、せっかく地元の人がいたので、宮本中務や太宰清右衛門の墓の場所を聞いておけば良かった。ま、酔っ払いばかりで、聞いても期待した答えがもらえたかどうかは分からないが。

(服部本英墓碑)


雲堂先生之墓碑

 服部本英は、文化三年(1806)の生まれ。代々が医者の家系で、医学を塩田揚庵、学問を関口備明、太田錦城に学んだ。小川郷校稽医館にも出入し、医術の研鑚に努めるとともに、自ら郷校の世話役をして運営にも参加した。潮来の宮本茶村、斎藤晩晴らとともに「水南の三哲」と称えられた。
 弘化元年(1844)、水戸藩主斉昭が幕府より蟄居を命じられた際には、同志六人で連署の嘆願書を江戸麹町の紀州家役所に差し出したが、同年十一月、斉昭の謹慎が解かれたため、表には出なかった。元治元年(1864)の筑波山挙兵には、太宰清右衛門とともに留守居役として小川館に残り、後方支援に努めた。しかし、一部の隊員から強引かつ野蛮な方法で資金調達に走る者が出たため、幕府の追及の目は天狗党当事者のみならず、後方で支援する者にも及んだ。本英らが一時自宅近くに身を潜めていたが、逃れられないことを知り自首した。安食村の朝日太郎とともに水戸に護送されている途中、水戸が天狗党と諸生党の内乱状態にあったため、途中の田余村高崎台(現・玉里村高崎)にて急遽処刑され、首は長岡の刑場にさらされた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石岡 Ⅲ

2017年09月08日 | 茨城県
(萬福寺)


萬福寺

 元治元年(1864)六月二十二日、田中愿蔵隊が府中(現・石岡市)を離れると、それと入れ替わるように武田耕雲斎が府中に入った。武田が府中に来たことを知った小川郷校の者たちは続々と府中に集結し、その数は六百名を越えた。彼らは府中萬福寺(石岡市茨城1‐12‐21)や東耀寺、慈雲寺、法龍寺に分宿した。江戸に向かおうとしていた武田耕雲斎であったが、田中愿蔵による真鍋宿焼討により、土浦城下は通行が禁じられていたため、小川郷校の連中を引き連れて小川へ移動し、そこに留まった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大洗 Ⅳ

2017年09月08日 | 茨城県
(西光院)


西光院

 投降した榊原新左衛門らは長福寺に護送され、そこで下総佐倉藩に預けられることが決定され、大洗の西光院に移された。元治元年(1864)十一月二日、西光院を出て佐倉藩に護送されたが、のちに古河藩預けとなり、慶応元年(1865)四月五日、処刑された。
 西光院境内には樹齢六百年というイチョウの巨木があり、さらに参道の両側にはカエデが並木状に植えられている。きっと紅葉のシーズンは見応えがあるだろう(大洗町大貫町802‐1)。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ひたちなか Ⅵ

2017年09月08日 | 茨城県
(旧泉蔵院墓地)


贈正五位川崎孫四郎君墓志

 手元の「明治維新人名辞典」(吉川弘文館)によれば、川崎孫四郎の墓は勝田市(現ひたちなか市)枝川の仙蔵院とある。しかし、いくら地図を探しても枝川に仙蔵院という寺はなく、それ以上調査のしようもなかった。最近になって旧泉蔵院墓地が枝川にあることが分かり、早速ここを探索してみることにした((ひたちなか市枝川1310))。
 墓地に行ってみると、川崎家の墓がたくさんあり(ついでにいうと、川島家とか川又家とか紛らわしい名前も多い)、その中から孫四郎の墓を探し当てるのは容易ではない。少し背の高い墓誌が目印である。
 川崎孫四郎(まごしろう)は、文政九年(1826)の生まれ。安島帯刀の従者となり、高橋多一郎が奉行のとき郡吏に挙げられた。安政六年(1859)、高橋多一郎の意を受けて西上し、商人に変装して大阪に居を構え、薩摩藩同志と画策に当たった。万延元年(1860)三月、高橋父子の上坂を迎えて、薩摩藩の動向を探ったが、金子孫二郎らが捕えられたことを知り、急遽進退を協議しているところを捕吏に探知され、同年三月二十三日、自刃したが果たせず、捕えられて翌二十四日死亡した。年三十五。
 孫四郎は、最初大阪四天王寺に仮埋葬されたが、文久三年(1863)。当地に改葬された。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水戸 塩崎 Ⅱ

2017年09月08日 | 茨城県
(島田香取神社)


香取神社

 元治元年(1864)九月四日、幕府軍目付高木宮内ら追討軍八百余名が大発勢、天狗勢と対決するため那珂湊に向かった。その際、長福寺に駐屯した。その後、林正徳率いる潮来勢三百余が島田香取神社(水戸市島田2042)に入ったとの報を受けると、追討軍は直ちに島田に赴き、ここで激しい戦闘となった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水戸 全隈

2017年09月08日 | 茨城県
(園部家)
 水戸市全隈の園部家は長屋門を備えた立派な屋敷である。その長屋門に、天狗党の手によるといわれる刀痕が残されている。どういう状況で刀痕が残されたか不明であるが、偶発的なものではなく、柱に向かって何度も斬りつけたような形跡が感じられる。


園部家


長屋門の刀痕

(水戸浪士の墓)


水戸天狗党志士之墓

 園部家から数百メートル北に少し幅の広い道があり、その坂道を森林公園に向かって上って行くと、左手に「水戸浪士の墓」と書かれた看板がある。自動車の場合、小さな看板なので見逃さないように、スピードを抑えて走行する必要がある。
 この看板から雑草が伸び放題の道を進むと突き当りに水戸天狗党の墓がある。建立されたのは、昭和四十七年(1972)十二月のことなので、比較的新しいものである。
 元治元年(1864)のある日のことである。園部家の裏山に一人の天狗党員が逃げ込んで来た。園部家では負傷した青年を自宅に匿って介抱しようとたが、彼は固辞した。それでも園部では食事や水を運んで面倒を見たが、結局傷が悪化して数日で息絶えた。この墓はその無名の天狗党の青年を葬ったものである。

(森林公園)


加倉井砂山先生之像

 結果からいえば、水戸浪士の墓の前の道をそのまま北上すれば森林公園に行き着けたのであるが、引き返してしまったのが失敗であった。森林公園は成沢町と全隈町にまたがっていて、私は成沢町の公園内をぐるぐると回っていたのだが、目当ての加倉井砂山の像があるのは、全隈町の方であった。自然環境活用センターの前に加倉井砂山の像がある(水戸市全隈町1416‐1)。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

笠間 Ⅵ

2017年09月08日 | 茨城県
(笠間稲荷つづき)


西南戦争戦没者慰霊碑

 笠間稲荷の本殿の裏側に、西南戦争戦没者慰霊碑がある。建立は明治二十年(1887)。篆額(済みません、一番右の字が読めません。「紬果毅」?)は有栖川熾仁親王、撰文は山田顕義、書は山口県士族氏家邦卓。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

常陸太田 Ⅳ

2017年09月08日 | 茨城県
(法然寺)


二本松藩烈士殉難之瑩域

 法然寺の本堂近くの墓地とは別に木崎一町830‐2にある墓地に二本松藩士の墓がある。元治元年(1864)の天狗党の騒乱に際して、幕府の命を受けた二本松藩兵が太田守衛の任に就いた。この周辺地域での天狗党との戦いにより戦死した佐倉源五衛門ほか十数名がここに眠る。二本松藩兵の身命を惜しまぬ働きにより、太田は戦火から免れた。

 二本松藩士小笠原是馬助、佐倉源五右衛門、朝河安十郎の三名は「幕末維新全殉難者名鑑」に名前を確認することができる。彼らの連名墓の前に小さな墓石が四つ並んでいて、少なくとも五名の名前(一人は法名)を確認することができる。彼らの名前は「名鑑」にはない。


小笠原是馬助 佐倉源五衛門源政行 
朝河安十郎 墓


二本松藩士の墓
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

常陸大宮 Ⅳ

2017年09月08日 | 茨城県
(粕谷新五郎生家)
 常陸大宮市野口平の粕谷新五郎の生家と墓の正確な位置を知りたくて、市の商工観光課に問い合わせをした。早速、電話があり住所や粕谷家の電話番号などを教えていただいた。「訪問するときは必ず事前に電話してください」と念を押された。確かに粕谷家の墓地に行くには、粕谷家の敷地内を通らなくてはいけないため、やはり事前に断りを入れるのが礼儀であろう。
 電話するとその日御主人は不在で、代わりに奥様に対応いただいた。
 粕谷家の墓は、裏山の中腹にあり正面に粕谷家の墓、その手前に粕谷新五郎ら歴代の墓が並べられている。まず墓前に花を供えた。


粕谷新五郎宗伯君墓

 粕谷新五郎は、文政三年(1820)生まれ。父は粕谷忠兵衛といった。水戸で町同心などを務めていたが、後に江戸に出て目付方務に就いた。安政五年(1858)脱藩。密勅の返納問題では長岡に参集した。万延元年(1860)八月には同志とともに江戸の薩摩藩邸に駆け込み、攘夷の決行を迫った。これにより藩から処分を受けて文久二年(1862)はるまで江戸藩邸に幽閉されていた。放免された文久三年(1863)、幕府が募集した浪士組に参加して上京。江戸帰還に反対して、芹澤鴨、近藤勇らとともに京都に残留して、新選組結成当初の名簿に名前を連ねている。しかし、時期は不明ながら故郷に戻って、元治元年(1864)三月の天狗党の筑波山挙兵に参加。脱走して同志に捕まり、同年六月下野小山の持宝寺で自害させられている。四十五歳。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする