史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

佐原

2017年09月15日 | 千葉県
(佐原水郷)


佐原水郷

 佐原は、利根川に注ぐ小野川に沿って古い商家が軒を並べる「重要伝統的建造物群保存地区」が有名な観光地である。まず駅前の観光案内所に立ち寄ってレンタサイクルを調達する。観光地を回るだけであれば、自転車は却って邪魔かもしれないが、私の目的地は観光スポットから外れた牧野の観福寺だったので、迷わず自転車にまたがった。


伊能忠敬旧宅

 佐原が生んだ偉人に伊能忠敬がいる。伊能忠敬は、延享二年(1745)、上総山辺郡の生まれ。号は東河。通称三郎右衛門、のち勘解由。十八歳のとき、佐原の旧家伊能家に婿養子に入り、酒造、米取引などに専念して家業を挽回した。寛政六年(1794)隠居して、江戸の幕府天文方高橋至時に入門、天文暦学を学んだ。(1800)、蝦夷地測量に出たのを手始めに、全国測量の作業を文化十三年(1816)まで続け、次第に幕府の援助を受けるようになった。ついで我が国初の実測地図「大日本沿海與地全図」(いわゆる「伊能図」)のまとめにかかるが、文政元年(1818)死去。三年後の同図完成まで死は伏せられた。


伊能忠敬記念館


伊能忠敬像

 伊能忠敬記念館は入場五百円。忠敬の生涯、業績や地図などが展示されている。現代人の目で見ても正確な伊能図が、しかも実際に海岸線を歩いてこれを完成させたということを思い合わせると、感動を禁じえない。
 しかも隠居の身で、五十歳を過ぎてからこの事業に着手したというから二度驚く。私もまだまだ老け込むわけにいかない。

(諏訪公園)
 諏訪神社横の諏訪公園には伊能忠敬の銅像が立つ。伊能忠敬は十七歳から三十年余りを佐原で過ごした。この銅像は、忠敬の測量中の姿で、大正八年(1919)に建てられたものである。台石の文字は、「仰いでは斗象を瞻(み)、俯(ふ)しては山川を盡(えが)く」と読み、「天体の観測を行って、立派な地図を作った」という意味で、忠敬の功績を称えている。


仰瞻斗象俯盡山川(伊能忠敬像)

(観福寺)
 観福寺には伊能忠敬の墓がある。忠敬が亡くなったのは、文政元年(1818)五月十七日、江戸八丁堀亀島町、七十三歳であった。遺言により浅草源空寺の高橋至時の墓の傍らに葬られたが、佐原観福寺伊能家の墓には遺髪と爪が埋められている。


観福寺


有功院成裕種徳居士(伊能忠敬の墓)

 元治元年(1864)十一月、降伏した榊原新左衛門らは大洗町大貫の西光院に二泊すると、佐原牧野の観福寺に移された。その間、榊原新左衛門から陳情書が出されたり、幕府方の糾明などがあったが、十二月十一日には預け替えが実施された。新左衛門以下百一人は古河藩預けとなり、武州忍藩に百二十人、房州一ノ宮藩に十六人、出羽長瀞藩に十三人、上総鶴舞藩に十五人、上総大多喜藩に二十人、奥州福島藩に三十人、下総佐倉藩に百三十八人、房州勝山藩に十五人、上総請西藩に十三人、三河西大平藩に十三人、上総飯野藩に二十五人、下総高岡藩に十三人、下総生実藩に十三人、武州岩槻藩に三十人、下総結城藩に二十人、下総関宿藩に百二十人、武州川越藩に百三十六人、上総佐貫藩に二十三人と、大発勢はそれぞれ預けられた。諸藩預けとならない郷士以下四百二十七人はいずれも江戸佃島の獄に投じられた。榊原新左衛門、冨田三保之助、福地政次郎ら十七名は節切腹、沼田久治郎ら十二人が死罪を申付けられたのは、翌慶応元年(1865)四月のことである。なお江戸佃島の獄に投じられた者は、明治維新を迎えると解放されて小石川藩邸に入った。

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潮来 Ⅱ

2017年09月15日 | 茨城県


あやめ公園

 嫁さんと娘たちは出かけるという。「お父さんも好きにして良いよ」と前日に宣告され、慌てて潮来への日帰り旅行の計画を立てた。JRを使って八王子から潮来まで三時間半。駅の出口で、SUICAで精算しようとすると、この駅は未だ自動改札が入っていなかった。出口にあっという間に長い行列ができた。
 駅の建物に観光案内所が隣接している。ここで自転車を借りて市内の史跡を回ることとする(一日五百円)。

(浄国寺)


吉田松陰 宮本茶村を訪う

 前回の潮来でも浄国寺を訪問したが、宮本茶村の墓を訪ねて今回も立ち寄ることにした。
 嘉永四年(1851)十二月、水戸を訪ねた吉田松陰は、鹿島、牛堀、潮来、息栖、玉造を回遊して水戸に戻り、その後東北遊に出た。潮来では、宮本茶村宅に一泊した。時に茶村六十歳、松陰二十二歳であった。そのことを記念した石碑が、平成二十七年(2015)、元治甲子の変殉難百五十年を記念して、茶村の墓の傍らに建てられた。


宮本茶村顕彰碑


水雲宮本先生之墓

 宮本茶村は、寛政五年(1793)、潮来に生まれた。通称尚一郎、雅号は茶村、晩年は水雲と号した。壮時江戸に出て山本北山に学び、帰国して里正となり、郷士に列せられた。弘化の藩難に際し、有志を募って江戸に至り、尾張・紀伊両家および三連枝へ嘆願して水戸赤沼の獄に投獄された。三年を経て赦され、漢学塾を開いて子弟を教授した。学者としての聞え高く、また詩書を能くした。文久二年(1862)没。年七十。

 JR潮来駅前のあやめ公園の水雲橋は、宮本茶村の号に因んだものである。


水雲橋

(長國寺)
 潮来市上戸166の長國寺は、天狗党から分離した川俣茂七郎らが宿泊した場所である。その後、追い詰められた川俣茂七郎は、笠間を経て上州へ落ち延びる途上、笠間にて無念の自刃を遂げた。


長國寺

(潮来第一中学校)
 潮来第一中学校に至る坂道に、元治甲子ノ変殉難百五十年を記念して、平成二十七年(2015)三月、水戸烈士殉難碑と潮来郷校跡碑が建てられた。両碑の間には「筑波山挙兵 元治甲子ノ変殉難百五十年記念碑」が建てられ、潮来周辺から筑波山挙兵に参加した六十一名と大発勢に参加した八十一名の氏名が銅板に刻まれている。


水戸烈士殉難碑


潮来郷校跡

 この場所は、潮来郷校の跡であり、天狗党に加わった潮来勢の本拠地である。安政四年(1857)一月に武館が開設され、継いで同年九月に文館が開館した。創建したのは南郡奉行であった金子孫二郎で、当初は岩谷敬一郎(のち林五郎三郎)が館長を務めた。当時、小川・湊・潮来を「三館」と呼び、尊王攘夷の激派が集結し、諸生派と対立した。元治元年(1864)の騒乱で、幕府掃討軍により焼き討ちされた。

 一口に天狗党と呼ぶが、武田耕雲斎の率いる武田党とつくば挙兵以来の筑波勢、それに潮来勢が合流して、約千人の集団となったもので、この集団が京都を目指して西上の途に就いたのである。


潮来郷校跡 潮来天王台下

(潮来高校)
 県立潮来高等学校(潮来市須賀3025)のすぐ近くに延方郷校跡がある。潮来高校が少し市街地から離れた現在地に移った背景には、延方郷校の存在があったのかもしれないが、潮来高校のホームページ等を見ても、そのようなことは一切書かれていない。
 潮来高校の校門に至る緩やかな坂道の途中の民家の前に延方郷校跡という標柱が立っている。そこから雑木林に覆われた丘へ進むと郷校跡に至る。


茨城県立潮来高等学校


延方学校跡


延方郷校跡

 延方郷校跡は雑草で覆われ、容易に近づけない。雑草に足を取られながら、やっとの思いで写真を撮影できる場所まで行きつくことができた。「文化財を大切にしましょう」と書かれているが、その言葉が虚しく思えるほどの状態である。
 延方郷校は、元水戸延方学校と称し、文化年間初期、延方村の井村松亭(通称水戸屋先生)が加賀藩士沢田平格を招いて内田山の麓に塾を開いたのが始まりである。その後、文化四年(1807)、水戸藩南領の郡宰小宮山楓軒が、延方村の小峰京蔵、高田貞蔵、辻村の内藤伴蔵らとはかり、教育奨励のために内田山上に孔子霊を祀るための聖廟を建てた。これは水戸の弘道館に先立つこと三十有余年であり、水戸藩の中でも小川稽医館に次ぐ歴史を持つ郷校である。文化七年(1810)には大成殿が建てられ、徳川治紀(武公)より賜った「至聖文宣王」の掛軸が祀られ、文化十四年(1817)には哀公斉脩(なりのぶ)親筆による篆書を刻した「至聖先師孔子神位」が代わって祀られた。改築以前の仮聖廟は恵雲寺に移築されて、七面堂として現存している。改築後の聖廟は明治十二年(1879)に辻村に移転し、二十三夜尊堂としてこれも現存している。教学の中心は儒学であるが、日常生活に必要な実用教科や医術・武術に至るまで、現代の高等学校や大学程度にまでおよび、教授も沢田平格のほか、津宮の儒者久保木幡竜も藩命により毎月二回教鞭をとった。潮来村の宮本茶村もしばしば訪れて特別講義をしたといわれる。蔵書数も儒学書、日本文学、歴史伝記等千九百六十二冊あったと言われ、多くの有為の人材を育成した。明治五年(1872)、学生発布に伴い郷校は延方小学校の文教場となり、明治十年(1877)廃校となった。


萬政師表

(恵雲寺)
 恵雲寺には、延方郷校から移築された孔子聖廟が現存している(潮来市潮来1251)。


恵雲寺


七面堂(旧延方郷校仮聖廟)

(普門院)
 普門院地蔵堂は、徳川光圀に命により当時潮来村から延方に移築されたもので、蛙股(かえるまた)、頭貫(かしらぬき)、木鼻(きばな)等、細部までこだわった彫刻が見事である。建築年代は天和三年(1683)といわれ、老朽化のため鉄骨で囲われている。
 筑波勢から分離した藩外出身者は、幕府追討軍の攻撃を受けて鉾田、麻生、鹿島と南下し、その一部が鹿島大船津から対岸の延方へ渡った。ここで幕府軍と激しい戦闘となり、浪士三名が普門院地蔵堂の屋根の上にあがって指揮をとったと伝えられる。


普門院
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鶯谷 Ⅳ

2017年09月15日 | 東京都
(静蓮寺)
 鬼子母神の二軒くらい隣に静蓮寺という寺がある(台東区下谷1‐12‐21)。コンクリート製に建て替えられており、歴史を感じることはできないが、高村光雲の「幕末維新懐古談」(岩波文庫)によれば、師匠高村東雲の墓がここにあるというので、土曜日の午前中、八王子から往復した。


静蓮寺


高村家之墓

 さして広くない墓地に墓石が並んでおり、その一つひとつを確認して歩いた。ようやく高村家の墓を発見したが、側面に名前のある「高村晴雲」は、「幕末維新懐古談」にも「私の弟子には違いないが、家筋からいえば私の師匠筋の人 ――― 私の師匠東雲師の孫に当たる高村東吉郎君(晴雲と号す)があります」と紹介されているその人である。残念ながら東雲の名前を見付けることはできなかった。

 高村東雲は、文政九年(1826)の生まれ。仏師高橋鳳雲の門に入り、十一年間徒弟として修業し、年季明けて独立し、高村東雲と称し、浅草蔵前森田町に仏師として立った。その後、浅草諏訪町、ついで駒形町に転居。さらに蔵前北元町に移った。明治十年(1877)、第一回内国勧業博覧会に「白衣観音像」を弟子光雲とともに共作して出品、竜紋章を受けた。明治十二年(1879)、年五十四にて没。

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