(願宗寺)

願宗寺
願宗寺には官軍に属して宇都宮で戦死した小寺庄次郎の墓がある。本堂横の墓地の比較的新しい墓石がそれであるが、側面に庄次郎戦死の経緯が漢文で刻まれている。
小寺良之助は先手組。慶応四年(1868)四月二十二日、宇都宮にて負傷。のち板橋にて死亡。五十三歳。
小寺庄次郎墓
(大垣宿)
大垣は戸田氏十万石の城下町であると同時に、美濃路上の宿場町でもあった。大垣宿本陣は永禄年間(1558~1569)に創建されたといわれる。明治十一年(1878)には、明治天皇が東海・北陸巡幸の際に宿泊し、建物の前に「明治天皇行在所跡」と記された石碑が建てられている。
大垣宿本陣
明治天皇行在所跡
大垣宿問屋場跡
本陣跡近くには問屋場跡がある。問屋場というのは、宿場において人馬の継立の業務を担ったところで、幕末の大垣宿では飯沼家が問屋役を本陣役と兼帯していた。
(大垣城乾門)
大垣市街地から六~七キロメートルほど離れた青野町の住宅街の民家に大垣城の乾門が移築されている。

大垣城乾門
(緑覚寺)
緑覚寺は本堂がコンクリート製に建て替えられていて、歴史を感じることはできないが、墓地には飯沼慾斎の墓などがある。飯沼家の墓も新しく建て替えられている。

緑覚寺
桐亭飯沼家之墓(飯沼慾斎墓)
飯沼慾斎は、天明二年(1782)の生まれ。諱は長順。墓石にあるように屋号は「桐亭」といった。慾斎は雅号。七、八歳で単身家出し、美濃大垣の叔父飯沼長竟の家に投じ、十二歳で同族の医師飯沼長顕の家に移り勉学した。十六歳のとき幕命により小野蘭山が諸国の薬物採集をすると、その門に入り随行して諸国を巡り本草学を修め、のちさらに水谷豊文について学を深めた。十八、九歳で京都に出て朝廷の医、福井丹波守(楓亭)に医学を学び、業を卒えて長顕の娘志保子と結婚して家督を継いで、その時長順と改め、二代目竜夫の称を継ぎ、大垣に開業した。その傍ら大垣藩医江馬蘭斎に蘭方医学を学んだ。二十八歳で江戸に出て、津山藩医宇田川榛斎の門に入り、かたがたその高弟藤井方亭に蘭学を学んで帰郷した。五十歳で家を義弟の健介に譲り、慾斎と号して別邸を長松村に営み、泉石に花卉を植えて平林荘と名付けた。もっぱら西洋植物学を学び、スウェーデンの博物学者リンネの綱目分類に従って「草木図説」三〇巻を著し、西洋植物学を世に紹介した。慶応元年(1865)、閏五月、年八十四にて没。
佐藤文之助藤原義成
佐藤文之助は鳥羽伏見の戦いで戦死。鉄砲組先手。慶応四年(1868)一月五日、山城鳥羽堤にて戦死。「幕末維新殉難者名鑑」によれば行年二十歳となっているが、墓石には十六歳とある。
(薬王寺)
薬王寺前に菱田海鴎居跡石碑が建てられている。この地は明治維新に際して、藩老小原鉄心とともに大垣藩論を勤王に統一することに貢献した菱田海鴎の邸宅跡である。かつては高欄を巡らせた高殿や蓮池を配置した風流の意匠を凝らしたものだったという。
海鴎は、天保七年(1836)に大垣藩儒菱田毅斎の六男に生まれた。名を重禧(しげき)と呼び、幼少より家学をよく修め、後に私塾を開いて読書詩文を教授し、ついで藩校の教官に任じられた。慶応四年(1868)鳥羽伏見の戦いで、鉄心の子兵部が幕軍に属したため、海鴎は鉄心の命により兵部に順逆を諭しに行く途中、長州藩兵に捕えられ、まさに斬られようとしたとき、絶命の詩を賦して死を免れ、その後鉄心とともに大垣藩を勤王方に導いた。

薬王寺
菱田海鴎居跡
(今村墓地)
史跡 飯沼慾斎解剖之地
文政十一年(1828)十二月二十六日および二十七日、飯沼慾斎は門人浅野恒進とともに、美濃で初めてこの地で刑死体を解剖した。
(和算塾算光堂跡)
史跡 和算塾算光堂跡
大垣市外野の住宅街の一角に和算塾算光堂跡石碑がある。
算光堂は、安政四年(1857)に浅野孝光(五藤治)が居宅に設立した私塾で、幕末から明治にかけて子弟教育に大きく貢献し、門弟三百人に達した。浅野孝光は天保十年(1839)安八郡外野村の豪農の家に生まれ、幼少より秀才の誉れ高く、稲津弥五郎(梁川星巌の妻紅蘭の兄)から関流和算術を習得したほか、天文、暦法、測量などの学問に励み、明治二年(1869)には大垣藩校の文学校助教授を務めた。
大垣を出る時、ちょうど甲子園で日大大垣高校が強豪天理高校と戦っていた。ラジオで試合経過を聞いていた私は、思わず日大大垣高校を応援してしまったが、残念ながら完敗であった。

願宗寺
願宗寺には官軍に属して宇都宮で戦死した小寺庄次郎の墓がある。本堂横の墓地の比較的新しい墓石がそれであるが、側面に庄次郎戦死の経緯が漢文で刻まれている。
小寺良之助は先手組。慶応四年(1868)四月二十二日、宇都宮にて負傷。のち板橋にて死亡。五十三歳。

小寺庄次郎墓
(大垣宿)
大垣は戸田氏十万石の城下町であると同時に、美濃路上の宿場町でもあった。大垣宿本陣は永禄年間(1558~1569)に創建されたといわれる。明治十一年(1878)には、明治天皇が東海・北陸巡幸の際に宿泊し、建物の前に「明治天皇行在所跡」と記された石碑が建てられている。

大垣宿本陣

明治天皇行在所跡

大垣宿問屋場跡
本陣跡近くには問屋場跡がある。問屋場というのは、宿場において人馬の継立の業務を担ったところで、幕末の大垣宿では飯沼家が問屋役を本陣役と兼帯していた。
(大垣城乾門)
大垣市街地から六~七キロメートルほど離れた青野町の住宅街の民家に大垣城の乾門が移築されている。

大垣城乾門
(緑覚寺)
緑覚寺は本堂がコンクリート製に建て替えられていて、歴史を感じることはできないが、墓地には飯沼慾斎の墓などがある。飯沼家の墓も新しく建て替えられている。

緑覚寺

桐亭飯沼家之墓(飯沼慾斎墓)
飯沼慾斎は、天明二年(1782)の生まれ。諱は長順。墓石にあるように屋号は「桐亭」といった。慾斎は雅号。七、八歳で単身家出し、美濃大垣の叔父飯沼長竟の家に投じ、十二歳で同族の医師飯沼長顕の家に移り勉学した。十六歳のとき幕命により小野蘭山が諸国の薬物採集をすると、その門に入り随行して諸国を巡り本草学を修め、のちさらに水谷豊文について学を深めた。十八、九歳で京都に出て朝廷の医、福井丹波守(楓亭)に医学を学び、業を卒えて長顕の娘志保子と結婚して家督を継いで、その時長順と改め、二代目竜夫の称を継ぎ、大垣に開業した。その傍ら大垣藩医江馬蘭斎に蘭方医学を学んだ。二十八歳で江戸に出て、津山藩医宇田川榛斎の門に入り、かたがたその高弟藤井方亭に蘭学を学んで帰郷した。五十歳で家を義弟の健介に譲り、慾斎と号して別邸を長松村に営み、泉石に花卉を植えて平林荘と名付けた。もっぱら西洋植物学を学び、スウェーデンの博物学者リンネの綱目分類に従って「草木図説」三〇巻を著し、西洋植物学を世に紹介した。慶応元年(1865)、閏五月、年八十四にて没。

佐藤文之助藤原義成
佐藤文之助は鳥羽伏見の戦いで戦死。鉄砲組先手。慶応四年(1868)一月五日、山城鳥羽堤にて戦死。「幕末維新殉難者名鑑」によれば行年二十歳となっているが、墓石には十六歳とある。
(薬王寺)
薬王寺前に菱田海鴎居跡石碑が建てられている。この地は明治維新に際して、藩老小原鉄心とともに大垣藩論を勤王に統一することに貢献した菱田海鴎の邸宅跡である。かつては高欄を巡らせた高殿や蓮池を配置した風流の意匠を凝らしたものだったという。
海鴎は、天保七年(1836)に大垣藩儒菱田毅斎の六男に生まれた。名を重禧(しげき)と呼び、幼少より家学をよく修め、後に私塾を開いて読書詩文を教授し、ついで藩校の教官に任じられた。慶応四年(1868)鳥羽伏見の戦いで、鉄心の子兵部が幕軍に属したため、海鴎は鉄心の命により兵部に順逆を諭しに行く途中、長州藩兵に捕えられ、まさに斬られようとしたとき、絶命の詩を賦して死を免れ、その後鉄心とともに大垣藩を勤王方に導いた。

薬王寺

菱田海鴎居跡
(今村墓地)

史跡 飯沼慾斎解剖之地
文政十一年(1828)十二月二十六日および二十七日、飯沼慾斎は門人浅野恒進とともに、美濃で初めてこの地で刑死体を解剖した。
(和算塾算光堂跡)

史跡 和算塾算光堂跡
大垣市外野の住宅街の一角に和算塾算光堂跡石碑がある。
算光堂は、安政四年(1857)に浅野孝光(五藤治)が居宅に設立した私塾で、幕末から明治にかけて子弟教育に大きく貢献し、門弟三百人に達した。浅野孝光は天保十年(1839)安八郡外野村の豪農の家に生まれ、幼少より秀才の誉れ高く、稲津弥五郎(梁川星巌の妻紅蘭の兄)から関流和算術を習得したほか、天文、暦法、測量などの学問に励み、明治二年(1869)には大垣藩校の文学校助教授を務めた。
大垣を出る時、ちょうど甲子園で日大大垣高校が強豪天理高校と戦っていた。ラジオで試合経過を聞いていた私は、思わず日大大垣高校を応援してしまったが、残念ながら完敗であった。