史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「遺聞 市川・船橋戊辰戦争 若き日の江原素六」 内田宜人著 崙書房出版

2017年09月30日 | 書評
本屋でこの本を発見し、いそいそとレジにもっていくと、店員から「この本、懐かしいですね。以前は新書で出ていましたよね。」と声をかけられた。この本が刊行されたのは、平成十一年(1999)のことなので、違う形態で刊行されていた可能性はあるが、それを聞いた私は「また、やってしまったか」と瞬時に思った。題名に飛びついて買うと、よく同じ中身の本を買ってしまうのである。自宅に戻って書棚を調べたが、どうやら同じ本は無かった。
戊辰戦争と言えば、鳥羽伏見から始まって上野戦争や会津戦争、箱館戦争が有名である。市川や船橋で戦争があったことなど、地元の人でもあまり知らないのではないか。
本書冒頭では、市川・船橋周辺に点在する戦死者の墓を紹介している。既に訪問済みのものも多いが、どうしても遭遇できないのが、中山法華経寺にあるという脱走方鈴木音次郎の墓である。法華経寺の墓地を二回隈なく探したが、見付けられないでいる。本書では「私は未見である。広い墓地の古い墓石の群れの間を丹念に歩くには時間が足らなかった」と述べられているが、本に掲載するのであれば、自分の目で確かめてからにして欲しいものである。もはや存在していないのであれば、こちらも歩き回る手間が省けるというものである。
それから船橋大神宮そばの東光寺の墓。本書によれば「近年発見された」というが、こちらもいくら探しても行き当たらない。筆者によれば「二度そこの墓地を歩いてみたが見つけることができなかった」とされているので、この墓は撤去もしくは他所に移動されてしまったのかもしれない。
本書の主題は、若き日の江原素六(鋳三郎)である。江原素六といえば、沼津兵学校の中心人物であり、麻布中学校の創立者として名を残した。維新以降の活躍が有名であるが、本書では明治以前の姿を中心に描き、維新後の事績はほんの数ページで紹介しているのみである。
江原素六は幕臣の中でも最下層である黒鍬者の出身である。苦学の末、頭角を表した。実父江原源五は、「学問など無用」という考えに凝り固まった人だったようであるが、周囲の説得や支援により、幕府の開いた講武所に通うことになり、幕末には撤兵隊の指揮官を務めるまで出世を遂げた。絵に描いたような極貧からの出世物語である。
末尾のプロフィールによれば、筆者内田宜人氏は、中学教員から教職員組合の活動という経歴の方で、相当筆力のある方とお見受けした。本書以外にも労働運動に関する著述を残されているようである。
幕末史にも一家言お持ちのようである。鳥羽伏見前夜、一般的には徳川慶喜は薩長との武力衝突は下策としていたにもかかわらず、幕臣や会津藩兵の血気を抑えきれず進軍命令を発してしまったといわれる。筆者によれば、それは「明治以降の史観に合わせての慶喜弁護論に過ぎない」「大政奉還戦術では失敗した権力集中への戦略を放棄したということはありえない。残っている方策は薩長との武力対決である」とするが、ここは多少議論のあるところであろう。
確かに数の上では幕軍の方が上回っていたし、武力衝突によって幕軍が勝利を収めれば再び権力を取り戻すことも可能だったかもしれない。しかし、一方でこの時、慶喜を新政府の要職で迎え入れるという運動も奏を効しつつあった。岩倉具視も容認する姿勢だったといわれる。その動きは慶喜の耳にも届いてたであろうし、それを考えるとこのタイミングで武力に訴えたのはやはり下策というべきではないか。慶喜が本当に武力によって権力を取り戻すつもりがあったのなら、鳥羽伏見で敗れても、まだ挽回の余地はあったように思うのだが。


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「江戸の「事件現場」を歩く」 山本博文著 祥伝社新書

2017年09月30日 | 書評
家康が江戸に幕府を開いて以来、江戸は政治の中心であった。江戸時代以降の史跡に関しては、京都を上回る集中度である。八百屋のお七や四谷怪談のお岩さんも、物語の舞台はいずれも江戸である。
幕末に近くなると、江戸の街も騒然としてくる。桜田門外の変や上野彰義隊の戦争など、次々と大事件が続発する。
本書で興味を引いたのは、近藤重蔵の息子、富蔵の刃傷事件であった。富蔵が塚原半之助とその家族合わせて七名を斬殺した「槍ヶ崎事件」を起こしたのは、文政九年(1826)五月十八日のことであった。富蔵は八丈島(実は現代の行政区でいえば、ここも東京都である)に流罪となり、明治十三年(1880)に赦免されるまで、五十年以上を島で過ごした。富蔵は着島後、前非を悔い、殺生を一切禁断し、ノミもシラミも殺さぬ、熱心な仏教徒となったという。八丈島の歴史、土木、産業、政治、地理、風俗、言語などあらゆることを記録した「八丈実記」全六十九巻を残した。富蔵は明治十三年(1880)に一旦本土に戻ったが、父の墓参りを済ますと、再び八丈島に戻り明治二十年(1887)、八十三歳の高齢で世を去った。
流罪、もしくは遠島、島流しともいわれる追放刑は、明治以降、送り先を北海道に改めながら明治四十一年(1908)まで続けられた。現代の人権感覚からすれば、到底容認できるものではないが、富蔵の劇的な更生を見れば、過去のしがらみを断ち別の場所で人生を送るということは、人の気持ちを浄化するような効果もあったのかもしれない。
この週末、八丈島を旅する予定である。近藤富蔵ゆかりの史跡も訪ねてみたい。
さて、本書では定番の事件現場のほか、時代小説や時代劇の舞台、剣客の道場跡、著名人の住居などを紹介している。東京都下の幕末維新関係史跡については、かなり回ったという自負があるが、本書では個人的に未踏の史跡もいくつか紹介されている。説明板や標柱などがあれば、分かりやすいのだが…。取り敢えず行ってみますか。

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「島津斉彬」 松尾千歳著 戎光社出版

2017年09月30日 | 書評
来年の大河ドラマは「西郷どん」である。早くも来年の主役を題材にした書籍が店頭に並び始めた。この本もその一つかもしれないが、「実像に迫る」と称したシリーズの中の一冊でもあり、あるいは大河ドラマとは関係なく島津斉彬を取り上げたのかもしれない。比較的冷静、中立に記述しており、その点では安心感がある。
斉彬が時代を代表する偉人であることは異論の余地がないだろう。しかし、斉彬が家督を継いだのは嘉永四年(1851)のことで、そこから安政五年(1858)に急死するまで、表舞台で活躍したのはわずかに七年に過ぎない。斉彬がその手腕を振うにはあまりに短い時間であった。
面白かったのは篤姫に関する記述である。一般には「斉彬が大奥で慶喜擁立工作するために篤姫を送り込んだ」と解されているが、筆者によればこれは誤解だという。本書によれば、夫人を島津家から迎えたいというのは家定の希望だったという。歴代最長の在位を記録した十一代将軍家斉に長命と子孫繁栄をもたらした、島津家から輿入れした広大院(島津重豪の娘)にあやかりたいという背景があったというのである。従って、「縁談は将軍継嗣問題とはまったく関係のない話」であり、斉彬も当初は篤姫を積極的に政治に利用しようという意図はなかったという。
筆者は斉彬の政治の弱みを指摘する。家老ら藩内の重臣たちに自分の考えを十分伝えることができていなかったことを挙げる。めまぐるしく変わる情勢に対処するために斉彬は常に陣頭に立って指揮し対処した。斉彬の判断は、時代の先端を行く先進的な思想・知識に基づいていたため、保守的な重臣たちはついていけなかった。緊急を要するものが多く、斉彬も自分の考えを丁寧に説明する余裕がなかった。従って、彼が急死した時、周囲の人たちは「置いてきぼり」にされたような状況であったろう。誰も斉彬に代わって指示を出すことができず、藩政は停滞、混乱した。斉彬自身がよもや突然世を去ることになるとは思ってもいなかったし、仕方ない側面もあるだろう。
斉彬の遺志は、朝廷や幕府、藩という枠を越えて挙国一致体制を築き、近代化を進めて西欧列強からの植民地化を防ぐことにあった。現代的感覚では、国家の指導者としては至極当たり前の思想かもしれないが、当時このような大局的な考え方をもった指導者は少なかったし、彼の思想を理解できた人も多くはなかった。天が斉彬にあと十年の寿命を与えていれば、幕末史も随分変わったものになっただろう。
本書では関係史蹟を多数紹介している。個人的にまだ行っていない史跡も多数ある。時間を気にせず鹿児島の史跡を存分に回りたいという思いが募った。

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「歴史の坂道 戦国・幕末余話」 中村彰彦著 中公新書クラレ

2017年09月30日 | 書評
新書でありながら、エッセイを集めた一冊。一つひとつが短くて読みやすい。あっという間に読破できる。
筆者は、星亮一氏と並んで会津贔屓の強い作家であり、そこは本書でも首尾一貫している。冒頭「今日の会津士魂」と題された一編では永岡久茂、山川浩、佐川官兵衛、山川捨松、新島八重、松江豊寿、池上四郎、川島広守、伊東正義らを例に引きながら「以上、眺めた人々の頑固さが道義心に裏打ちされたものであることに注意したい。頑固さが、美徳につながることもあるのだ」と締めくくる。「会津士魂」を称賛する論調であるが、ちょっと引っかかるものがある。こうして頑固さと美徳を合わせ持つ人物を列挙するのであれば、薩摩・長州・土佐・肥後にしても、いや日本中のどの藩を取り上げても、同藩出身者を並べれば、同じようなロジックで、そこに流れる精神を褒め称えることはできよう。
個人的に一番興味を引いたのが熊本県南阿蘇村に残る佐川官兵衛関連史跡の現状のレポートであった。筆者は長編小説「鬼官兵衛烈風録」で文壇デビューした関係から、今も佐川官兵衛には一方ならぬ思い入れを持っている。ここでは、熊本地震の後、佐川官兵衛が奮戦討死した阿蘇周辺の史跡に足を運び、いずれも相当なダメージを受けていることが報告されている。
私が阿蘇周辺の西南戦争関連史跡を歩いたのは、もう二十年以上も前のことであり、次に熊本県を訪ねる機会があれば、是非阿蘇周辺を再訪したいという気持ちが強い。一方で、この辺りは熊本地震の被害のもっとも甚大な場所であり、多くの家屋が倒壊し、尊い人命が失われた。阿蘇大橋が崩落し、今も通行止めになっている道路が数知れない。こういう状況で史跡を訪ねる旅が実行可能なのだろうか。
筆者のレポートによれば、関連史跡の状況はかなり壊滅的なようである。生活の復興が優先されるのは当たり前であるし、倒れた石碑をもとに戻すのは結構大変な労力を要する作業であるから、史跡を復元するのに時間を要するのは已むを得まい。
何だか絶望的な気分になってきたが、本書によれば、本年四月、南阿蘇村の佐川官兵衛記念館に官兵衛の胸像を備えた佐川官兵衛顕彰碑が建立されたという。さらに、この本を読み終えた八月末、ちょうど阿蘇長陽大橋が再建されたというニュースが報じられた。被災地にも明るい日差しが届き始めたようで、こちらまで気分が明るくなった。

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「天狗争乱」 吉村昭著 新潮文庫

2017年09月30日 | 書評
愛読書の一つ。最近になってまたしても天狗党が「マイブーム」となったので、また書棚から引っ張り出した。もうこの本を何回読んだだろうか。表紙は擦り切れてバラバラになってしまい、セロテープでとめている有り様である。
天狗党の末路は悲惨である。幕末という激動期、数々の事件が発生した。そのエンディングは悲惨な討死であっても、そこに悲壮美を見出すことができるかもしれない。しかし、天狗の騒乱にはそのような美しさは見出しにくい。人間の愚かしさをあからさまに露呈した事件といえる。
彼らが筑波で挙兵した際の名目は「攘夷の実行」のはずであった。この旗印のもとに、水戸藩士だけでなく、全国から攘夷を信奉する人たちが集結した(特に上州からの参加者が多かったため、“上州勢”とも呼ばれる)。天狗党の挙兵は、藩政の主導権を門閥派(諸生党)が握り、藩主名代の宍戸藩主松平頼徳が切腹させられた時点で、目を覆いたくなるような藩内抗争へと変質してしまった。この時、藩外から参加した人たちは、天狗党を離れ、独自に攘夷実行の道を模索するが、分離した上州勢も目的を果たせないまま、壊滅してしまう。これが天狗党の第一の誤算であった。
天狗党の第二の過ちは、田中愿蔵隊の乱暴狼藉を許してしまったことにある。栃木や真鍋の町を焼き討ちし、無辜の市民を殺傷し、金銭を脅し取った彼らの行為は、市民の恐怖を煽っただけでなく、反発を買う結果になった。自衛のために鯉渕の農民らが武器を手に立ちあがったのも、その反動の一つである。天狗党幹部は愿蔵隊を除名放逐し、その後隊内の綱紀粛正を図ったが時既に遅かったといえよう。天狗党は水戸藩領を出て京都を目指すが、行く先々で必ずしも暖かく迎えてもらえなかった。天狗=暴虐というイメージを拭い去るのは容易ではなかった。
彼らの犯した三番目の過ちは、一橋慶喜に訴えるために西上したことにある。天狗党が敦賀で降参した時点で、彼らの命を救うことができたのは慶喜しかいなかったであろう。幹部数名の切腹、ほかの隊員は本圀寺に引き取るか、一橋家で預かるという選択肢はなかったのだろうか。慶喜は―――端的にいってしまえば―――彼らを見殺しにしてしまった。貴種ゆえの薄情といってしまえばそれまでだが、自分を慕って水戸からはるばると行軍してきた集団をかくも簡単に見捨てることができるものか。本書を読む限り、慶喜が助命のために苦悶した様子は感じられない。慶喜が、彼らが期待したほどの同情をもっていなかったということが三番目の誤算である。
元治元年(1864)の内訌において勝者となった門閥派であるが、この短期的な政権奪取が彼らにとって本当の意味での成功だったか。中央で公武合体派が主流である間、門閥派は政権を維持できたが、王政復古のクーデター以降、尊攘派が主導権を握ると、水戸藩諸生党は水戸を追われることになる。老母や幼女まで処刑するという残酷な措置は、当然ながら反作用を招いた。今度は彼らの家族が捕われ処刑された。幕末、尊攘派対佐幕派の対立はどの藩でも顕在化したが、水戸藩のように相手を根絶やしにしようという報復合戦が見られたのはここだけである。水戸藩の抗争は、勝者なき戦いであった。

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