史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

那須 Ⅲ

2017年09月08日 | 栃木県
(グリーンピアセカンド)


浮浪徒十四人之墓

 水戸浪士(天狗党隊員)の戦死者を葬った「浮徒十四人之墓」を探して、この辺りを走り回ること四度に及んだが、どうしても見付けることができない。そこで那須町観光協会に問い合わせたところ、写真付きで詳しい地図を送っていただいた。これがあれば、迷うことなく探し当てることが可能である。
 七月のどんより曇った日、念願を果たすため、早朝に自宅を出発して一路浮徒十四人之墓を目指した。場所は県道72号を進んで黒川橋を渡って直ぐに左折。グリーンピアセカンドという別荘地に至るが、最初に出会う三叉路を左に入り、二つ目の交差点を左折し、その先の田圃の中にある。車で近くを走っていて見える場所ではなく、やはり場所を知らずに探し当てるのは簡単ではない。やっと対面できたことに感慨一入であった。小雨が降り始めたが、しばしこの墓の前にたたずんだ。
 この墓は、文字とおり水戸浪士十四人を葬ったもので、葬られているのは田中愿蔵隊に属した隊士(いずれも農民)といわれる。元治元年(1864)十月、捕えられた彼らはこの地で処刑された。明治九年(1876)、十三回忌を機に建てられたものである。

(山田資料館)
 JR東北本線の黒田原駅から徒歩数分という住宅街の中に山田資料館がある。明治二十四年(1891)、黒田原一帯の払下げを受けた山田顕義は、開拓のための農場事務所をこの地に構えた。当時は母屋、事務所、宿泊部屋、穀倉などを備えていたが、今は事務所の一部が残っているのみである。資料館では山田顕義やその子孫の写真や遺品を展示している。入場無料、要事前予約。
 例によって私がこの場所を訪れたのは朝の七時半で、開館時間の遥か前であった。


山田資料館


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栃木 Ⅳ

2017年09月08日 | 栃木県
(近龍寺)
 定願寺と同じく、天狗党が宿所とした寺である。定願寺に本陣が置かれ、田丸稲之右衛門や藤田小四郎らが宿泊。元治元年(1864)六月一日、近龍寺には田中愿蔵隊が入った。
 田中愿蔵は定願寺の総裁田丸稲之右衛門から軍装が華美に過ぎることを咎められ、近龍寺の裏門から出立するよう命じられた。


近龍寺


近龍寺裏門

 栃木を出た天狗勢は結城に移動したが、ここから田中愿蔵隊は独自行動を取り始める。栃木に引き返した田中は、非武装・無抵抗の住民を殺害した上、街に放火した。火事は終夜収まらず、焼失家屋四百余という被害を出した。さらに消火しようとした町民が田中愿蔵隊の手によって殺害された。栃木では「愿蔵火事」と呼んだ。
 田中愿蔵は、攘夷にとどまらず倒幕思想を有していたといわれる。それにしても、無辜の住民を殺害し、街に放火するという暴虐な事件は正当化しようがない。天狗党は軍律を重んじていたが、若い田中を制御することができなかった。本来であれば、このような事件を起した時点で、田中愿蔵を処刑するか、討伐しておく必要があったであろう。しかし、田中愿蔵隊は天狗党と行動を別にしながら、時には共同して諸生党と戦った。外から見て、やはり田中愿蔵隊は天狗党の一部であり、天狗党=残虐な集団というイメージを最後まで払拭することはできなかった。田中愿蔵隊の存在があったから、諸生党に「こちらが正義」というお墨付きを与えることになったし、幕府も迷うことなく天狗党の追討を命じることになった。天狗党が悲惨な最期を迎えた伏線は、既に田中隊が暴虐事件を起こした時点で芽生えていたといって良いだろう。

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