史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

新見

2019年06月01日 | 岡山県
(新見市役所)


丸川松隠と山田方谷

 新見市役所の前に師丸川松隠と子供時代の山田方谷の像がある。
 丸川松隠(1758~1831)は、新見藩の藩校思誠館に招かれて、多くの人材を育てた。山田方谷もその愛弟子の一人で、五歳の時に松隠の塾に入り、約十年をそこで学んだ。方谷は終生松隠の教えを守り、後に備中松山藩の廃政改革を成し遂げた。

(思誠小学校)


藩黌思誠館之跡

 丸川松隠が教鞭をとった藩校思誠館は、現在思誠小学校となっている。体育館の前に藩黌思誠館跡の石碑が建てられている。


新見館跡碑

 新見館は、新見藩の館で、現在この碑が建てられているのは正門のあった辺りである。撰文は犬養毅。篆額は第十代当主で貴族院議員をつとめた関博直。


松隠丸川先生碑銘

 丸川松隠の顕彰碑は、昭和四年(1929)、新見阿哲の有志によって建立されたもので、高さ三・六メートル。撰文は松隠の盟友佐藤一斎による。

(丸川松隠旧宅)


丸川松隠旧宅

 思誠小学校前には丸川松隠宅が現存している。今も丸川さんがお住まいのようで、一般公開はされていない。

(雲居寺)


雲居寺


松隠丸川先生原墓

 雲居寺は、思誠小学校の前の道を登り切った高台にある。丸川松隠の墓所である。
 丸川松隠は、宝暦八年(1758)倉敷の西阿知で生まれた。西阿知は、新見藩の飛び地であった。時の藩主関長誠(ながのぶ)は、藩政の立て直しに人づくりが必要と考え、西阿知から松隠を招いて思誠館の督学(校長)として迎えた。以後、十七年にわたりその任にあたった。

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高梁 Ⅳ

2019年06月01日 | 岡山県
(山田方谷記念館)


山田方谷像

 久しぶりに高梁市の郷土史料館を訪ねたところ、その隣に山田方谷記念館が開設されていた。あとで調べたところ、この記念館がオープンしたのは、わずか数か月前のことで、まだ真新しい施設である。入館料は大人五百円。六十五歳以上の方は無料。
 入ると、いきなり二体の山田方谷像が出迎えてくれる。一つは郷土史料館の前に立つ像、もう一つは備中高梁駅前に立つ像の、いずれも原型である。


山田方谷記念館

 記念館では「儒学者への道」「備中松山藩の藩政改革」「教育への情熱」という三つのテーマに分けて、歴史資料や解説パネルにより、山田方谷の事績について分かり易く紹介している。
 山田方谷所縁の史跡も紹介されている。ここで情報を入手して、この後、美咲町の知本館と温知館を訪ねることにした。

(高梁基督教会堂)


高梁基督教会堂

 有終館跡の斜め向い側に立つ教会は、新島襄ゆかりの教会として知られる。
 高梁市でのキリスト教活動は、明治十二年(1879)十月の布教に始まり、翌十三年(1880)、新島襄が来高して活動が急速に発展した。明治十五年(1882)四月、高梁基督教会が創立された。一部の町民の感情的な反対運動もあったが、信者の団結が高まるとともに教会堂建設の要望も強まり、信者の浄財によって明治二十二年(1889)に教会堂が建設された。この教会堂は、現存する県内最古の教会堂であり、プロテスタントとしては全国でも同志社のチヤペルに次いで古い教会堂である。高梁市内で最初に建てられた擬洋風建物でもある。設計は、今治市出身の吉田伊平。

(備中高梁駅)


山田方谷像


至誠惻怛(しせいそくだつ)

 備中高梁駅前に山田方谷の銅像が建てられたのは、平成二十九年(2017)のことである。銅像の横には、山田方谷が河井継之助に贈ったといわれる「至誠惻怛」という王陽明の言葉が刻まれている。方谷は、まごころ(至誠)と、いたみ悲しむ心(惻怛)の二つを兼ね備えて生きることが、人としての大事な基本姿勢だと説く。

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倉敷 Ⅱ

2019年06月01日 | 岡山県
(正福寺)


正福寺

 倉敷市藤戸町天城の正福寺には、戊辰戦争で戦死した岡山藩の斎藤小十郎の墓がある。本堂向かって右手にある鳥居を備えた墓がそれである。


忠哉軒殉難勇猛居士
(斎藤小十郎の墓)

 斎藤小十郎は銃隊司令。慶応四年(1868)八月二十九日、若松城下にて戦死。三十七歳。





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岡山 Ⅳ

2019年06月01日 | 岡山県
(沼)


大節玄忠居士(内藤恵三郎の墓)

 沼地区の山の斜面の共同墓地に、戊辰殉難者内藤恵三郎の墓がある。官修墓特有の玉垣で囲まれているので、遠くからでも直ぐに分かるだろう。

 内藤恵三郎は岡山藩銃卒。慶応四年(18868)五月十五日、江戸根津にて彰義隊伏兵と会し戦死。四十二歳。

(岡山護国神社)
 岡山護国神社は、明治二年(1869)四月三日、後楽園裏の竹田河原において時の岡山藩主池田章政公が、戊辰戦争奥羽の役までの藩戦死者三十四柱の招魂祭を執行。次いで、同年読月、岡山市内東山公園内にて社殿と碑石を建て、箱館における戦死者を含めた五十五柱の鎮祭を執り行ったことを起源とする。以来、大東亜戦争までの殉難者五万六千七百柱余りを御祭神として祀っている。
 参道に戊辰戦争と西南戦争の招魂碑がある。


岡山護国神社


招魂碑


紀功碑(西南戦争招魂碑)

(幣立山公園)


大融院殿静巗士裁大居士(杉山岩三郎の墓)

 岡山護国神社の近くにある幣立山公園は、山そのものを公園化したものである。手もとの「明治維新人名辞典」(吉川弘文館)によれば、杉山岩三郎の墓が幣立山にあると記載されていたので、半信半疑であったが、幣立山を歩いてみることにした。
 歩き始めて数分で、自然林の中に玉垣で囲まれた杉山家の墓所を発見。あっけなく杉山岩三郎の墓に出会うことができた。

(犬養木堂生家)


犬養木堂生家

 前回、吉備津神社を訪ねた際、犬養毅の生家がこの近くにあることを知ったので、機会があれば訪問したいと思っていた。私が犬養毅生家跡を訪ねたのは、まだ八時にもならない時間だったため、門は閉ざされたままであった(開館時間は、九時~十七時)


犬養木堂翁生誕之地碑

 犬養家は、代々庄屋や藩の要職を務めた農家で、この生家は江戸時代前期に建てられたものと推定されており、この地方の近世民家の代表的なものとしても価値が高い(国の重要文化財)。老朽化が甚だしかったが、昭和五十四年(1979)、解体復元され、一般公開されている。また、隣接して犬養木堂記念館も開設されている。

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