(新見市役所)
丸川松隠と山田方谷
新見市役所の前に師丸川松隠と子供時代の山田方谷の像がある。
丸川松隠(1758~1831)は、新見藩の藩校思誠館に招かれて、多くの人材を育てた。山田方谷もその愛弟子の一人で、五歳の時に松隠の塾に入り、約十年をそこで学んだ。方谷は終生松隠の教えを守り、後に備中松山藩の廃政改革を成し遂げた。
(思誠小学校)
藩黌思誠館之跡
丸川松隠が教鞭をとった藩校思誠館は、現在思誠小学校となっている。体育館の前に藩黌思誠館跡の石碑が建てられている。
新見館跡碑
新見館は、新見藩の館で、現在この碑が建てられているのは正門のあった辺りである。撰文は犬養毅。篆額は第十代当主で貴族院議員をつとめた関博直。
松隠丸川先生碑銘
丸川松隠の顕彰碑は、昭和四年(1929)、新見阿哲の有志によって建立されたもので、高さ三・六メートル。撰文は松隠の盟友佐藤一斎による。
(丸川松隠旧宅)
丸川松隠旧宅
思誠小学校前には丸川松隠宅が現存している。今も丸川さんがお住まいのようで、一般公開はされていない。
(雲居寺)
雲居寺
松隠丸川先生原墓
雲居寺は、思誠小学校の前の道を登り切った高台にある。丸川松隠の墓所である。
丸川松隠は、宝暦八年(1758)倉敷の西阿知で生まれた。西阿知は、新見藩の飛び地であった。時の藩主関長誠(ながのぶ)は、藩政の立て直しに人づくりが必要と考え、西阿知から松隠を招いて思誠館の督学(校長)として迎えた。以後、十七年にわたりその任にあたった。
丸川松隠と山田方谷
新見市役所の前に師丸川松隠と子供時代の山田方谷の像がある。
丸川松隠(1758~1831)は、新見藩の藩校思誠館に招かれて、多くの人材を育てた。山田方谷もその愛弟子の一人で、五歳の時に松隠の塾に入り、約十年をそこで学んだ。方谷は終生松隠の教えを守り、後に備中松山藩の廃政改革を成し遂げた。
(思誠小学校)
藩黌思誠館之跡
丸川松隠が教鞭をとった藩校思誠館は、現在思誠小学校となっている。体育館の前に藩黌思誠館跡の石碑が建てられている。
新見館跡碑
新見館は、新見藩の館で、現在この碑が建てられているのは正門のあった辺りである。撰文は犬養毅。篆額は第十代当主で貴族院議員をつとめた関博直。
松隠丸川先生碑銘
丸川松隠の顕彰碑は、昭和四年(1929)、新見阿哲の有志によって建立されたもので、高さ三・六メートル。撰文は松隠の盟友佐藤一斎による。
(丸川松隠旧宅)
丸川松隠旧宅
思誠小学校前には丸川松隠宅が現存している。今も丸川さんがお住まいのようで、一般公開はされていない。
(雲居寺)
雲居寺
松隠丸川先生原墓
雲居寺は、思誠小学校の前の道を登り切った高台にある。丸川松隠の墓所である。
丸川松隠は、宝暦八年(1758)倉敷の西阿知で生まれた。西阿知は、新見藩の飛び地であった。時の藩主関長誠(ながのぶ)は、藩政の立て直しに人づくりが必要と考え、西阿知から松隠を招いて思誠館の督学(校長)として迎えた。以後、十七年にわたりその任にあたった。