(酒蔵通り)
平成最後の日、すなわち連休四日目、竹さんご夫妻と合流して二日目は、東広島市の郷土史研究会のMさんのご案内で神機隊関係の墓を巡るというディープな一日であった。
前日、福山から神石高原、庄原、因島、竹原、安芸太田と回って、RVパーク西条駅前にぎわいパークがこの日のゴールであった。RVパークは車中泊が可能な駐車場で、トイレや洗面所なども完備している。この場所もMさんの手配で利用することになった。連休中というのに、この日この場所で車中泊をしている車は、我々を含めて三台しかなかった。
我々がRVパークに到着すると、早速Mさんが迎えに来てくれて、行きつけの店で飲むことになった。東広島市の中心部西条は、灘、伏見と並ぶ酒処として有名で、駅前には「酒蔵通り」がある。Mさんお勧めの日本酒は、すいすいと飲めてしまった。
前日は本降りの雨だったため、この日も天気が最大の懸念であったが、何とか朝には雨が上がった。Mさんとは朝九時に待ち合わせしていたため、それまでの時間、酒蔵通りを散策した。
酒蔵通り
酒蔵通りには、白牡丹、亀齢、賀茂鶴といった西条を代表する蔵元が密集している。いずれも赤いレンガ造りの煙突と白壁に赤い瓦屋根という特徴的な建物が並ぶ。
西条四日市宿本陣(御茶屋)跡
酒蔵通り周辺は、江戸時代西条四日市と呼ばれ、旧西国街道の宿場町として栄えた。西条四日市宿の本陣は、藩の直営で、御茶屋と称された。建物は取り壊されたが、昭和六十一年(1986)、正門が復元された。
(上河内)
東広島郷土史研究会のMさんと竹さんとの接点は八年前の東日本大震災に遡る。Mさんが、震災後に福島県の浜通りに点在している神機隊士の墓の状況を問い合わせたことから何回かメールのやりとりがあったという。その後、音信が途絶えていたが、今回、竹さんご夫妻が東広島の神機隊士の墓の場所を問い合わせたところ、「分かりにくい場所だから」と一日案内役を買ってでていただいた。確かに、この日ご案内いただいた墓所は、いずれもカーナビと住所だけでは絶対に行き着けないような場所ばかりで地元の方のご案内は大変値打ちがあった。
最初にご案内いただいたのが、上河内地区の後藤仁三郎の墓である。仁三郎の末裔の方が麓で待っていてくれた。後藤家の墓は、公道から十分ほど歩いた山の中にある。末裔の方によれば、これでもこの場所は昔の街道沿いに当たるそうである。
釋 明乗(後藤仁三郎の墓)
後藤仁三郎(にさぶろう)は、神機隊東北出軍第二隊に属し、一番中隊隊長補として仙台周辺に出征。明治十年(1877)には西南戦争にも従軍して日向を転戦している(墓石には明治十一年とあるが、明治十年の誤りだろう)。墓石によれば、後藤家の二代政之助は日露戦争に従軍し、三代政美氏は昭和十四年(1939)に支那事変に従軍し、戦後復員したというから、戊辰以来の我が国近代の戦争とこの家の歴史は見事に重なっているのである。
義照院釋明乗 為祖父後藤仁三郎追善供養塔
傍らには、平成元年(1989)に後藤政美氏が神機隊百二十年を記念して建てた、後藤仁三郎の供養塔がある。
(上三永)
次に向かったのが、上三永の藤原春鵲(しゅんじゃく)の墓である。これも極めて分かりにくい場所で、もう一度一人で行けといわれてもとても無理である。
藤原春鵲は、儒医春徳の子。幼少より父春徳の薫陶を受け、少年時代は頼聿庵に師事。のち長崎に行き蘭医池田玄彬に学び、特に種痘を研究して二年後帰郷。慶應二年(1866)六月、第二次征長出兵の際、弟子を引率して藩庁に出張して傷病兵、被災民の治療に当たった。この頃、郡奉行の指揮のもとに従来の農兵とは別に臨時農兵隊(のちに應変隊に発展)が編成されていたが、その屯営に出向して軍医長となった。神機隊関係の史料によると、志和の同隊残留部隊の役付の中に春鵲の名があり、應変隊より転出したものと思われる。嘉永六年(1853)の飢饉の際には私金七十五両を窮民救済にあて、それも受給者の心情を慮り貸付の名目で行い、実際には返済を受けなかった。その後も凶作の度に救済し、また郡役所に上申して郡内全域に無料で種痘を行った。常時伝来の山林を開放して村民の燃料として提供。明治六年(1873)には上三永に小学校が創設されると、その経費の過半を負担した。明治二十九年(1896)十月、病没。六十七歳。弟権曹、子の戒三はいずれも広島県議に当選している。
上三永の築地神社には春鵲の顕彰碑があるが、時間の関係で立ち寄れず。
藤春鵲碣(藤原春鵲の墓)
(助実)
神機隊加藤常太郎義光墓
次にご案内いただいたのが、助実の神機隊加藤常太郎の墓である。農地の一角で神機隊加藤常太郎の墓が発見されたもの、既に加藤家の人々も思い当たらないという状況であった。
加藤常太郎は、神機隊三番中隊。「東広島の歴史事典」(東広島郷土史研究会編)によれば、出征当時二十四歳だったらしいが、墓石には行年二十二歳(明治二年(1869)十二月十八日)とある。
このあと、やはりMさんのお勧めの東広島市内の広島風お好み焼き屋で昼食。今回の旅で、唯一「土地の美味いもの」を口にした。
(八本松町原 為本集会所)
造賀善太郎惟義墓
ここからは八本松の神機隊士の墓を訪ねる。Mさんによると、八本松という地名は、旧山陽道の一里塚に夫婦の松があり、それぞれ四本の枝を出し、あたかも八本の松があるように見えたことに由来するそうである。
最初に訪問したのが、為本集会所の周辺にある墓地にある造賀(ぞうか)善太郎の墓である。
造賀善太郎は、第三小隊。賀茂郡原村の人。慶応四年(1868)七月二十六日、磐城広野にて戦死。十九歳。
(八本松町原 吉川)
蓮臺院釋光義 (吉川逸平の墓)
八本松町原吉川(よしかわ)の吉川(きっかわ)逸平の墓である。こちらも近所に住む末裔の方にご案内いただいた。ご案内いただいただいでも恐縮なのに、その後、ご自宅でお茶やお菓子までいただき、帰りにはお土産にもみじ饅頭までいただいてしまった。この日は至るところでこのような厚いもてなしを受け、感激するやら恐縮するやらといった一日となった。
吉川逸平は、第一小隊。慶応四年(1868)七月二十三日、磐城広野にて負傷。二十四日、小名浜病院にて死亡。二十三歳。
(八本松町原 寺屋敷墓地)
釋 願證信士(宮崎三右衛門の墓)
宮崎三右衛門は神機隊員として従軍。仙台から箱館五稜郭まで転戦した。墓石によれば、大正七年(1918)九月二十四日、死去。享年七十五。
(西蓮寺)
西蓮寺本堂は、この地域特有の艶のある赤い屋根瓦で覆われている。Mさんに教えていただいたところによると、この赤い屋根瓦は「石州瓦」と呼ばれる、山陰地域特有のもので、この地域でも石見地方と同じ粘土質の土を産出することから、同様の瓦が生産されることになったそうである。
西蓮寺
神機隊は、西蓮寺を屯所とし、もと長州藩奇兵隊に属していた木本壮平を教師として、新旧流の訓練を行った。戊辰戦争に出征して、多くの戦病死者を出した。凱旋後も解散されることなく再編成されたが、廃藩置県後の明治五年(1872)に至り、生涯扶持と三百人ずつ交代で広島城内松原講武所出勤を条件に解散した。西蓮寺境内に隊員の一部の墓が集められている。
明治維新 神機隊本陣跡
芸州回天軍第一起神機隊の墓
神機隊の墓は、その多くが西蓮寺の向いの和田山の山中に無造作に放置されていたものを、地元のK氏が西蓮寺境内に集めたものである。この日は、東広島郷土史研究会副会長のYさんとK氏の御子息に西蓮寺まで御越しいただき、その場でたくさんの関係資料を頂戴し、解説を聞くことになった。
石田速一居士之墓
西蓮寺神機隊墓地には十七基の墓石が並べられているが、いずれも戊辰戦争においていわき、広野、相馬、双葉周辺での戦病死者である。その中にあって中央一段背の高い墓は、石田速一のものである。
石田速一は、西蓮寺墓地に寝せ棺で土葬されていた。身長六尺と、当時としてはかなり大柄であった。墓から掘り起こされた時、何故かチョンマゲだけは長く伸びていたと伝えられる。西蓮寺に駐屯した神機隊士のうち病死したものと思われる。
加藤善三郎高義墓
加藤善三郎の墓は白河の萬持寺にもある。東北における戊辰戦争も終息した十月、長州藩の人夫を誤って殺してしまい、その責を負って自刃。二十五歳。
西蓮寺向いの和田山(山というより丘と呼んだ方が正確だろう)では、神機隊の調練が行われたという。今は深い藪に覆われている。
和田山
(八条原城跡)
副会長宅の史料館
西蓮寺からY副会長のご自宅に移動し、ここで副会長より三十分ほど八条原城についてのレクチャーを受け、それだけでなく様々な書籍(「高間省三の遺品写真集」「歴史記録写真集 志和」「神機隊ものがたり」)や資料のコピーを頂戴した。いただいた中には「東広島の歴史事典」(東広島郷土史研究会編)という大部の書籍まで含まれている。この書籍は定価七千円もするもので、東広島に関する歴史が網羅されている。神機隊についても十八ページを割いて詳述している。
Y副会長のご自宅は、八条原城に近接した場所にあり、八条原城跡から発掘された瓦や門柱の一部等が自宅の資料室に展示されている。
文武塾の瓦
志和神社
広島藩八条原城跡
Y副会長の自宅の裏手、現在志和神社のある辺りが旧八条原城の兵舎や練兵場のあった場所と推定されている。
八条原城は、慶応四年(1868)、戊辰戦争勃発に際し、芸州藩では戦乱の拡大と外国軍艦の干渉等、不測の事態に備え、既にその前年軍艦方木原秀三郎が神機隊屯営地としていたこの場所に、藩庁別館および学寮兼兵営・練兵場を設営し、非常時に対処することとした。同年七月、武具奉行高間多須衛(たすえ)を総監として着工した。世子浅野長勲、前藩主浅野長訓らも相次いで来村指揮したという。同時に志和への入口となる六カ所に柵門を設け、神機隊の留守部隊をもって守衛させた。その他の間道も全て封鎖し、志和盆地全体を一大要塞とした。明治二年(1869)四月には藩士子弟三百人を選抜して学寮に入れ、文武塾(現在の志和神社の東側)を開校した。しかし、動乱は鎮静化に向い、明治二年(1869)十二月、築城工事は中止され、諸施設は解体払下げとなった。
八条原城と呼ばれているものの、城郭や石垣が築かれたわけではなく、実態としては陣屋のようなものであったと考えられる。
普段は立ち入ることができない場所であるが、Y副会長のご厚意で、城址の隅々までご案内いただいた。感謝感激のひとときであった。
八千石の米蔵礎石
兵舎の北側には、八千石の米蔵が築かれていた。現在はその礎石のみが残されている。
兵舎から本丸までは「抜け穴」が通じていた。Y会長の子供の頃は、トンネルで遊んだというが、ある時、一部が崩落したため出入りが禁止された。
ジャングルのような藪を抜けると、いきなり何もない空間が出現する。ここが本丸跡で、その周囲には庭園や見張台、政事堂などが設けられていたとされる。
平成最終日、長い一日が終わった。時計の針は午後五時を回っていた。
東広島市は通常観光で行くような場所ではないが、地元の人に行く先々で解説してもらった。これ以上の贅沢はないだろう。特別風光明媚な場所でもなく、山海の美味に舌鼓をうつわけでもなく、温泉を楽しむわけではなかったが、こういうゴールデンウイークの過ごし方も悪くない。
なお、この日の様子は東広島郷土史研究会のブログに掲載されている。
三十年余り続いた平成が終焉を告げた。振り返れば、私が史跡の旅を始めたのは、平成七年(1995)からであり、いつしか四半世紀が過ぎた。それなりに執念深く史跡を求めて日本全国を歩いてきたが、まだ道半ばといったところである。史跡訪問の日々はまだ続く。