史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

安芸太田

2019年06月15日 | 広島県
(真教寺)
 広島市内から安芸太田町までおよそ五十キロメートル、高速道路を使っても一時間のドライブとなる。真教寺の川本久次郎の墓を訪ねるためだけに、はるばると安芸太田まで往復することになった。安芸太田は、山に囲まれた町で、北西部は島根県の益田市と接している。


真教寺

 真教寺に行けば、直ぐに見つかるだろうと高を括っていたが、予想に反して真教寺の境内に墓地がなく、雨の中を近くの墓地を隈なく探してみたが、見つけることができなかった。
 しかし、ここまで来て手ぶらで帰るのも悔しい。そこで思い切って真教寺の人に聞いてみることになった。
 突然の訪問に、ご住職は少々驚いたようだが、竹さんがこの墓を訪ねて仙台から来たことを切々と訴えると、丁寧に墓の在り処を教えてくれた。墓所は、真教寺の前の道を南に進んで、最初の交差点を右折して直ぐの畳屋を右折した突き当りにある。

 川本久次郎は、戸河内村の出身。政屋芳松といったが、出征中に川本久次郎と改名した。應変隊に召募され、奥州方面を転戦したが、慶応四年(1868)九月五日、戦死。
 会津若松郊外の新城寺に葬られたが、昭和五十四年(1979)、子孫の手により故郷の真教寺に改葬された。新城寺にも記念碑が残されている。


忠誠院義源大居士(川本久次郎の墓)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

因島

2019年06月15日 | 広島県
(神峰寺)


神峰寺

 因島は、かつて因島市と呼ばれる独立した行政区であったが、現在は尾道市の一部となっている。西瀬戸自動車道(しまなみ海道)で尾道とも実質的に陸続きとなっており、決して孤島ではない。島の東側の椋浦地区にこの地区出身の青木忠右衛門の碑が建てられている。


徳川幕府軍船美嘉保丸舩将青木忠右衛門之碑

 美嘉保丸は、慶應元年(1865)六月、幕府がオランダから購入した三本マスト八百トンの機帆船で、ブランデンボルグ号と呼ばれた。青木忠右衛門は、当時としては優秀な艦船であったこの軍艦に乗り組み、榎本武揚に率いられ、他艦船七隻と行を共にし、慶応四年(1868)八月二日、品川起きを抜錨した。第一集結地である奥州陸前松島湾に向け航行の途次、下総銚子浦沖にて大時化に遭遇して難破。黒生浦に漂着した。


椋浦廻船の燈籠

 椋浦には文化二年(1805)に建立された燈籠が残されている。当時、椋浦廻船は千石船二~三十艙を有しており、人家も三百軒を数えた。この石燈籠は、当浦の廻船連中が金毘羅大権現を祀った常夜燈であり、燈明台(燈台)でもあった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

竹原 Ⅱ

2019年06月15日 | 広島県
(忠海八幡神社)


忠海八幡神社

 竹原市忠海(ただのうみ)町の八幡神社に池田徳太郎の顕彰碑がある。
 池田徳太郎(号は快堂)は、天保二年(1831)に忠海町の医者池田元琳の長子として生まれた。幼くして神童と呼ばれ、八歳にして入野村の清田黄裳の塾に学んだ。十一歳から豊前中津の常藤頼母に師事。さらに十五歳から豊後の広瀬淡窓の門に入り、筑前の亀井革卿の塾を訪れ、試しに「論語」を講じて認められ、塾長となった。十九歳で帰郷し、病死した黄裳にかわって清田塾を主宰し、さらに須波の曹洞宗能満寺に山籠もりして読書修養に励むかたわら、学生を教えていた。その頃、浦賀にペリー、長崎にプチャーチンが来航し、徳太郎は江戸遊学の志を立て、安政四年(1858)、麹町に塾を開き、お玉が池の清河八郎の道場に通った。安政の大獄で吉田松陰、頼三樹三郎らが処刑されたことを聞き、大いに憤慨している。文久元年(1861)、清河八郎、伊牟田尚平、樋渡清明、山岡鉄太郎(鉄舟)、北有馬太郎、笠井伊蔵等と会して、尊王攘夷の挙に出ることを決した。しかし、幕府の偵察が厳しく、清河八郎が無頼漢を斬ったことを口実に逮捕投獄されてしまう。獄中での厳しい吟味に耐え、死を覚悟して同志を救うことに苦心した。獄中不衛生により多くの同志が病死し、徳太郎も瀕死の大病を患ったが、九死に一生を得た。文久二年(1862)、坂下門外の変が起こり、これを契機に幕府の方針が変わり、国事犯の赦免がなされ、徳太郎も放免された。徳太郎は、国事のため囚われた志士の大赦と、浪士募集の運動を画策した。幕府も将軍家上洛を理由に浪士を集めてその懐柔策とした。この浪士の組織が分裂して、一部が新選組となったが、徳太郎は、幕府の力で変革は無理と判断して、同志と袂を分かち帰省した。元治元年(1864)には芸藩に属し、藩の重要事件に関し、密使として活躍。慶応三年(1867)十一月には御手洗において薩長芸の会盟が開かれ、徳太郎は芸藩を代表してこれに当たった。戊辰戦争が起こると、倒幕軍の参謀として芸州兵を率いて出兵した。戦後は地方官として、下総常陸の管轄を命じられ、さらに若森県権知事、新治県権令、島根県権令、岩手県参事、青森県権令を歴任した。明治七年(1874)、四十四歳で病没。


維新志士 池田快堂顕彰碑

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

庄原

2019年06月15日 | 広島県
(光縁寺)


光縁寺

 光縁寺の本堂前に渡辺他人之丞の墓がある。渡辺他人之丞は、安芸藩應変隊。慶応四年(1868)九月二日、岩代栃沢村にて戦死。四十歳。日光の龍蔵寺、東京の泉岳寺の広島藩合葬墓にも葬られている。


渡辺他人之丞墓

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神石高原

2019年06月15日 | 広島県
(神石高原ホテル)
 幕末維新という時代に活躍した人物ではないが、このところ伊能忠敬という人に惹かれている。伊能忠敬は五十歳を越えて、十七年という歳月を測量という事業に身を投じ、精緻な地図を完成させた(ただし、「大日本沿海與地図」の完成は伊能忠敬の没後のことである)。現在より遥かに平均寿命の短い江戸時代にあって、隠居後にそれまでの人生とは全く異なる事業を始め、歴史に名を残すような成果を収めたということに驚くほかない。
 当然ながら、伊能忠敬の関係史跡は全国に点在しており、それを追いかけるのも終わりのない作業である。日本地図を作成するだけであれば、沿岸部だけを測量すればよいのだろうが、忠敬は結構山間部にも足を運んでいる。
 神石(じんせき)高原町にも四カ所伊能忠敬関係石碑が建てられている。


伊能忠敬測量之地

 最初に訪問したのが、神石高原ホテル前の石碑である。伊能忠敬の測量隊が神石を訪ねたのは、文化八年(1811)二月のことであった。一行は百谷村(現・福山市)方面から北上して、時安村(神石高原ホテルのあるところ)を経由して井関村へ向かっている。

(井関)


伊能忠敬測量本体宿泊邸跡

 伊能忠敬測量隊は、文化八年(1811)二月十四日、午前二時過ぎに井関村の門田久治郎宅に到着し、この夜、天体観測を行い、翌朝、六時過ぎに出立した。

(中平)


伊能忠敬測量支隊宿泊邸跡

 伊能忠敬の測量隊には別動隊がいて、彼らは三次方面から新免村(現・油木町)に入り、文化八年(1811)二月十一日、中平村の庄屋矢田貝孫兵衛宅に宿泊している。この石碑はそのことを記念したものである。

(三輪酒造)
 神石高原町油木の三輪酒造の門前にも伊能忠敬測量隊が宿泊したことを記念する石碑が建てられている。


伊能忠敬測量隊宿泊邸跡

 この場所は、庄屋七郎庄衛門邸の跡で、文化八年(1811)二月十日に支隊が宿泊、その五日後に本隊もここに宿泊し、その夜、天体観測を行っている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福山 Ⅱ

2019年06月15日 | 広島県
(福山城)
 前日は岡山市内にホテルをとった。翌朝、七時半に福山駅で竹様と約束していたが、その前に福山駅周辺を散策するため、まだ日が登らない四時半に起床。五時十五分発の岡山駅始発に乗って福山に移動した。個人的にはほぼ十五年ぶりの広島県下の史跡の旅である。
 福山駅前に福山城がそびえ立っている。駅から、この距離で城が立っているのは、福山以外にないのではないか。今回の福山城訪問目的は、小丸山の江木鰐水、寺地舟里の顕彰碑である。


小丸山

 小丸山は、福山城の背面の防備の役割をもった天然の城塞であった。
 明治維新に際し、譜代大名であった福山藩は、長州軍の攻撃を受け、この丘で死守した。当時、福山藩は藩主阿部正方を失い、その喪を秘して小丸山に仮埋葬していたが、藩論を勤王にまとめ、儒者の関藤藤陰らを使者に立てて、長州藩との和平を成立させたため、城下は戦火を逃れることができた。
 福山藩の動向を決定付けたこの丘に、福山の礎となった人びとの碑を移設し、現在この場所は「先人の森」としてその遺徳を顕彰する場となっている。水野勝成、江木鰐水と寺地舟里の顕彰碑は、もともと本丸跡にあったが、昭和五十五年(1980)に移設したものである。


鰐水江木先生之碑

 江木鰐水は、文化七年(1810)、豊田郡戸野に生まれた。名は繁太郎。頼山陽に師事し、大阪、江戸に学んだ。のち儒官として阿部正弘に仕え、学制、軍制改革に参与した。廃藩後、教育、殖産に努めた。明治十四年(1881)没。


舟里寺地先生之碑

 寺地舟里は、文化六年(1809)福山に生まれた。名は強平。京、長崎、江戸で洋学を学び、福山で初の種痘を実施した。藩校誠之館で洋学教授。廃藩後は城下西町に医学校兼病院を設立した。明治八年(1875)没。

(備後護国神社)
 備後護国神社は、明治元年(1868)、従四代藩主阿部正桓の創立に始まる。維新の国難で亡くなった英霊を始め、幾多の戦役や日清、日露、先の大戦に至るまで国家のため殉じた郷土の英霊三万一千余柱を祀っている。当初は、新宮と称し、福山八幡神社境内に招魂社が建立されたが、明治二十六年(1893)に福山城に移転し、明治三十四年(1901)官祭福山招魂社、昭和十四年(1839)には福山護国神社と改称された。戦後、占領軍の指示に従い、備後神社と称し、阿部神社と合併して備後護国神社となり現在地に移転した。
 文化十年(1813)九代阿部正精が開いた勇鷹(ゆうおう)神社が前身となり、明治十年(1877)、阿部神社と改称された。祭神は、阿部家の遠祖大彦命(おおひこのみこと)ほかを主神とし、阿部家代々の祖霊を祀っている。昭和三十二年(1957)、備後神社と合併して今日に至っている。


備後護国神社


阿部正弘公像

 本殿の横に阿部正弘の像がある。福山城にある像と比べると丸顔で何だか福々しいくらいであるが、我々が残された肖像から連想する阿部正弘は、こちらの方がイメージに近いかもしれない。
 十一代藩主阿部正弘は、歴代の阿部家当主の中でも最も著名な存在であろう。ペリー来航という難局に当たって「言路洞開」の道を開いたという意味では英断といえるかもしれない。しかし、このことが契機になって、外様大名や公家までもが政治に口を出すようになり、最終的には幕府の倒壊を早めることになった。阿部正弘は、安政四年(1857)に三十七歳という若さで世を去ってしまったので、このことだけをもって評価を下すのは酷かもしれないが、手放しで「名君」と誉め称えるのも如何なものか、という気がする。


捨生取義碑

 捨生取義碑は、阿部正桓の篆額。濱野章吉撰文。明治十九年(1886)建碑。裏面には幕末の石州の役から箱館五陵郭の役、佐賀の役、台湾の役、西南戦争まで福山から出征し犠牲になった兵士の名前が刻まれている。

 約束の時間まで、備後護国神社の境内を歩いていると、竹さんご夫妻と遭遇した。朝早くから神社をウロウロしている人種といえば、ラジオ体操の老人か竹さんご夫婦くらいしかいない。待ち合わせするまでもなく出会うことができた。以降、竹さんご夫妻とともに広島県から山口県の史跡を回ることになる。

(みずほ銀行福山支店)
 福山駅南口から徒歩数分。みずほ銀行福山支店の前に福山医学黎明の地と題した石碑が建てられている。明治初年、この地に福山醫學校、同仁館病院があったことを記念したものである。
 明治二年(1869)、福山藩は誠之館教授寺地舟里を院長として、西洋医学による大規模な病院並びに医学校をこの地に開設し、広く住民に開放した。福山地方の近代医療の原点となる旧跡である。


福山医学黎明の地

(箱田良助誕生之地)
 福山市神辺町箱田に、箱田良助誕生の地の石碑がある。
 箱田良助は、寛政二年(1790))箱田村の庄屋細川園右衛門の次男に生まれた。通称良助。のちに左太夫、源三郎。細川家が一時箱田氏を称したことから、箱田姓を名乗った。文化四年(1807)、十七歳のとき、江戸に出て伊能忠敬に入門、測量術を学んだ。九州第一次測量、第二次測量に参加したのち、忠敬の筆頭内弟子として測量および地図作成に尽力し、文政四年(1821)の大日本沿海與地全図作成に大きく寄与した。文政五年(1822)、榎本家に入り、榎本園兵衛武規と改名、御徒士となった。弘化元年(1844)には御勘定方となって、旗本の列に加えられた。万延元年(1860)八月、七十一歳にて死去。榎本武揚の実父である。


箱田良助誕生之地


箱田道中 菅茶山

 箱田良助誕生の地碑の横には、菅茶山の漢詩箱田道中が刻まれた碑が置かれている。

此經山蹊歳幾回
 此の山蹊を経ること歳に幾回
毎将夜半始還來
 毎(つね)に夜半ならんとして始めて還り来る
行思往時停籃擧(擧はたけかんむり)
 行くいく思ふ往時 籃擧(らんよ)を停めしを
數點流蛍水竹隈
 数點の流蛍 水竹の隈


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする