(福山城)
前日は岡山市内にホテルをとった。翌朝、七時半に福山駅で竹様と約束していたが、その前に福山駅周辺を散策するため、まだ日が登らない四時半に起床。五時十五分発の岡山駅始発に乗って福山に移動した。個人的にはほぼ十五年ぶりの広島県下の史跡の旅である。
福山駅前に福山城がそびえ立っている。駅から、この距離で城が立っているのは、福山以外にないのではないか。今回の福山城訪問目的は、小丸山の江木鰐水、寺地舟里の顕彰碑である。
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小丸山
小丸山は、福山城の背面の防備の役割をもった天然の城塞であった。
明治維新に際し、譜代大名であった福山藩は、長州軍の攻撃を受け、この丘で死守した。当時、福山藩は藩主阿部正方を失い、その喪を秘して小丸山に仮埋葬していたが、藩論を勤王にまとめ、儒者の関藤藤陰らを使者に立てて、長州藩との和平を成立させたため、城下は戦火を逃れることができた。
福山藩の動向を決定付けたこの丘に、福山の礎となった人びとの碑を移設し、現在この場所は「先人の森」としてその遺徳を顕彰する場となっている。水野勝成、江木鰐水と寺地舟里の顕彰碑は、もともと本丸跡にあったが、昭和五十五年(1980)に移設したものである。
鰐水江木先生之碑
江木鰐水は、文化七年(1810)、豊田郡戸野に生まれた。名は繁太郎。頼山陽に師事し、大阪、江戸に学んだ。のち儒官として阿部正弘に仕え、学制、軍制改革に参与した。廃藩後、教育、殖産に努めた。明治十四年(1881)没。
舟里寺地先生之碑
寺地舟里は、文化六年(1809)福山に生まれた。名は強平。京、長崎、江戸で洋学を学び、福山で初の種痘を実施した。藩校誠之館で洋学教授。廃藩後は城下西町に医学校兼病院を設立した。明治八年(1875)没。
(備後護国神社)
備後護国神社は、明治元年(1868)、従四代藩主阿部正桓の創立に始まる。維新の国難で亡くなった英霊を始め、幾多の戦役や日清、日露、先の大戦に至るまで国家のため殉じた郷土の英霊三万一千余柱を祀っている。当初は、新宮と称し、福山八幡神社境内に招魂社が建立されたが、明治二十六年(1893)に福山城に移転し、明治三十四年(1901)官祭福山招魂社、昭和十四年(1839)には福山護国神社と改称された。戦後、占領軍の指示に従い、備後神社と称し、阿部神社と合併して備後護国神社となり現在地に移転した。
文化十年(1813)九代阿部正精が開いた勇鷹(ゆうおう)神社が前身となり、明治十年(1877)、阿部神社と改称された。祭神は、阿部家の遠祖大彦命(おおひこのみこと)ほかを主神とし、阿部家代々の祖霊を祀っている。昭和三十二年(1957)、備後神社と合併して今日に至っている。
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備後護国神社
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阿部正弘公像
本殿の横に阿部正弘の像がある。福山城にある像と比べると丸顔で何だか福々しいくらいであるが、我々が残された肖像から連想する阿部正弘は、こちらの方がイメージに近いかもしれない。
十一代藩主阿部正弘は、歴代の阿部家当主の中でも最も著名な存在であろう。ペリー来航という難局に当たって「言路洞開」の道を開いたという意味では英断といえるかもしれない。しかし、このことが契機になって、外様大名や公家までもが政治に口を出すようになり、最終的には幕府の倒壊を早めることになった。阿部正弘は、安政四年(1857)に三十七歳という若さで世を去ってしまったので、このことだけをもって評価を下すのは酷かもしれないが、手放しで「名君」と誉め称えるのも如何なものか、という気がする。
捨生取義碑
捨生取義碑は、阿部正桓の篆額。濱野章吉撰文。明治十九年(1886)建碑。裏面には幕末の石州の役から箱館五陵郭の役、佐賀の役、台湾の役、西南戦争まで福山から出征し犠牲になった兵士の名前が刻まれている。
約束の時間まで、備後護国神社の境内を歩いていると、竹さんご夫妻と遭遇した。朝早くから神社をウロウロしている人種といえば、ラジオ体操の老人か竹さんご夫婦くらいしかいない。待ち合わせするまでもなく出会うことができた。以降、竹さんご夫妻とともに広島県から山口県の史跡を回ることになる。
(みずほ銀行福山支店)
福山駅南口から徒歩数分。みずほ銀行福山支店の前に福山医学黎明の地と題した石碑が建てられている。明治初年、この地に福山醫學校、同仁館病院があったことを記念したものである。
明治二年(1869)、福山藩は誠之館教授寺地舟里を院長として、西洋医学による大規模な病院並びに医学校をこの地に開設し、広く住民に開放した。福山地方の近代医療の原点となる旧跡である。
福山医学黎明の地
(箱田良助誕生之地)
福山市神辺町箱田に、箱田良助誕生の地の石碑がある。
箱田良助は、寛政二年(1790))箱田村の庄屋細川園右衛門の次男に生まれた。通称良助。のちに左太夫、源三郎。細川家が一時箱田氏を称したことから、箱田姓を名乗った。文化四年(1807)、十七歳のとき、江戸に出て伊能忠敬に入門、測量術を学んだ。九州第一次測量、第二次測量に参加したのち、忠敬の筆頭内弟子として測量および地図作成に尽力し、文政四年(1821)の大日本沿海與地全図作成に大きく寄与した。文政五年(1822)、榎本家に入り、榎本園兵衛武規と改名、御徒士となった。弘化元年(1844)には御勘定方となって、旗本の列に加えられた。万延元年(1860)八月、七十一歳にて死去。榎本武揚の実父である。
箱田良助誕生之地
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箱田道中 菅茶山
箱田良助誕生の地碑の横には、菅茶山の漢詩箱田道中が刻まれた碑が置かれている。
此經山蹊歳幾回
此の山蹊を経ること歳に幾回
毎将夜半始還來
毎(つね)に夜半ならんとして始めて還り来る
行思往時停籃擧(擧はたけかんむり)
行くいく思ふ往時 籃擧(らんよ)を停めしを
數點流蛍水竹隈
数點の流蛍 水竹の隈