史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「江戸のながい一日 彰義隊始末記」 安藤優一郎著 文春新書

2019年06月29日 | 書評

 維新後、勝海舟が江戸城無血開城のことを繰り返し語り、あれで江戸が戦火を免れたと信じられているが、実際にはその数カ月後に上野を舞台に彰義隊と官軍の戦争があった。戦争といっても、わずか一日で片が付いてしまったため、やや印象が薄いが、実は太平洋戦争の空襲を除けば、江戸(東京市街)が戦争の舞台となったのは、史上唯一のことであった。

江戸城無血開城というと、西郷隆盛と勝海舟のトップ会談によって「江戸城総攻撃は中止された」といわれている。しかし、筆者によれば、中止というより「一時中止、延期」と表現する方が正確だという。海舟との会談を受けて、西郷は駿府にいる大総督有栖川宮熾仁親王に判断を仰ぐため、総攻撃は延期となったのである。結果的には中止となったが、あの時点では「延期」というべきである。人間はどうしても「美談」に流れがちである。

その後、新政府、旧幕府双方にとって最大の関心事は徳川家の処分であった。我々は徳川家が駿府に移されて存続したことを知っているので、新政府内でも満場一致で決定し、徳川家もそれをすんなりと受け入れたと思いがちであるが、新政府内でも意見は割れていた。

江戸で孤立していた大総督府では、江戸城を徳川家に返還し、江戸を徳川家の所領とする案を推していた。徳川家に与える所領が百万石を下回る場合は、騒乱に備えて四万~五万の兵を送って欲しいと要求していた。

これに対し、京都の新政府首脳(三条、岩倉、大久保、木戸ら)は、所領は駿河、江戸城は返還しないという厳しい案を主張していた。注目すべきは、早くもこの時点で、西郷と大久保の意見は対立していたということである。我々の抱いているイメージでは、幕末を通じて西郷と大久保は常に「一枚岩」であったが、ここに亀裂の萌芽を見ることができる。

最終的に徳川家が駿河に移封されたのは歴史が語るとおりであるが、大総督府と新政府首脳の会談が行われていた慶應四年(1868)四月の時点では、江戸城が徳川家に返還される可能性もあったのである。

彰義隊の戦争も、結果的に一日で終わったため、新政府軍の圧勝のように思われている。確かに、新兵器を装備し、場合によっては全国から兵を補給できる新政府軍に対し、烏合の衆である彰義隊に勝ち目はなかった。しかし、戦いが長期化すれば、寛永寺境外に潜伏する旧幕不満分子や日和見の旧幕臣らが彰義隊に呼応して市中でゲリラ戦を展開する恐れもあった。彰義隊から分離した、渋沢成一郎が率いる振武隊もその一つであった。のちに渋沢成一郎は「戦いが夜にまで雪崩込み一日で終わらなかったならば、江戸にいた幕臣たちが東征軍と一戦交えるかまえだった」と証言している。

新政府軍を指揮する大村益次郎にとって、勝利はいうまでもなく、戦いを日が暮れるまでに終わらせることが命題であった。結果的には、その日のうちに戦いは終結したが、案外薄氷の勝利だったのである。

彰義隊が潰走し、牙を抜かれた徳川家に対し、新政府は七十万石で駿府へ移るよう言い渡した。彰義隊による上野戦争は、徳川家の命運を握る戦いでもあったのである。

 

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廿日市

2019年06月29日 | 広島県

(大頭神社)

 

大頭神社                                     

 

 広島市内の掃苔を終えると、次は隣接する廿日市の二つの史跡をアタックした。千人塚は、広島岩国道大野ICを出てすぐ、大頭神社の門前にある。

 

千人塚

 

 慶応二年(1866)六月、この辺りは第二次幕長戦争の際、約二か月にわたり激戦が展開された。この戦闘で戦死した新宮藩士らがここに葬られたという。

 

(残念さん)

 山陽道を走っていると、「残念さん」という看板が目に入ってくるが、これも長州戦争関係の史跡である。高速道路の南側に駐車スペースが設けられており、そこからは徒歩で向かうことになる。高速道路を渡る橋も「さんねんさん橋」と名付けられている。

 

残念社

 

 残念社に祀られているのは、丹後宮津藩士依田伴蔵。

 慶應二年(1866)七月九日、四十八坂を単騎西に向かって走る幕軍の武者がいた。長州軍は、これを戦闘員と誤認をして狙撃。武士は「残念」と言い残してこと切れた。武士の名は依田伴蔵で、軍使として長州軍営に向かう途中であったことが分かり、長州軍は遺憾の意を表した。残念社は、村人が伴蔵の戦死を悼んで祀ったものである。

 

吉田松陰の腰掛石

 

 近いところに依田神社というもう一つ社がある。その参道にあるのが、吉田松陰の腰掛石である。松陰が江戸に護送される途中、当時西国街道中の難所といわれた八坂峠のこの石の上に腰を掛け、遥かに周防大島を望みながら、「この場こそ、三国一望の地である」と。故郷への別れを告げた。

 

依田神社

 

 以上で予定された広島県の史跡を終了し、いよいよ山口県に入る。

 

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広島 Ⅱ

2019年06月29日 | 広島県

(聖光寺)

 東広島での史跡三昧の一日を過ごした夜、広島へ移動してそこで車中泊することになった。広島は大都市であるが、どういうわけだか車中泊の定番「道の駅」が周辺に少なく、ネットで検索すると「マリーン公園」くらいしかヒットしないのである。マリーン公園は、広島市と廿日市市の境の海岸沿いにある。広い駐車スペースを備えているが、前日のRVパーク西条駅前が閑散としていたのと打って変わって、大混雑であった。

 聖光寺

 平成が終わり、令和を迎えた。私の令和も史跡の旅で始まった。

外が明るくなると早々にマリーン公園を出発し、真っ先に向かったのが東区山根町の聖光寺である。浅野家繋がりだろうか、境内には赤穂浪士大石内蔵助父子の供養塔がある。

 

 

高間壮士之碑と高間省三正忠之墓

 

 高間省三の墓と顕彰碑である。高間省三は、広島藩の武具奉行高間多須衛の長子。藩校助教を務めた。若くして神機隊の砲隊長兼武器方として出征。慶応四年(1868)八月一日、浪江口において顔面に砲撃を受け戦死。双葉町自性院にも墓所がある。二十一歳。顕彰碑は、阪谷朗蘆の撰文。

 

  

介菴梅園翁之碑

 

 梅園介庵は広島藩儒。慶應元年(1865)、江戸詰藩邸学館(講学所)を監督。明治三年(1870)、三原学校監督。廃藩後は修道学校教授。明治十八年(1885)には市内中島本町に漢学学校麗澤学校を開いた。明治二十一年(1888)没。

 (本照寺)

 聖光寺の後、安佐南区の緑井霊園に行って、咸臨丸航海長小野友五郎の墓を探したが、緑井霊園では小野家の墓すら見つけることができなかった。

 次いで常林寺で戊辰殉難者亀田喜代三の墓を探したが、周囲は広大な霊園となっており、まずその中から常林寺の墓域を探す作業から始めなくてはならなかった。残念ながら、ここでも亀田喜代三の墓に出会うことはできなかった。

 空振りが続いたが、次に訪れた本照寺では、墓地に入った途端、目の前に目当ての阪井虎山の墓が立っていた。

 

 

本照寺

 

 

虎山阪井先生之墓

 

 阪井虎山は幕末の広島藩儒。頼春水に学び、漢詩に長じた。妙円寺の海防僧月性も二十歳のとき虎山に入門し、交流が深かった。嘉永三年(1850)、五十三歳にて没。

 

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