史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

会津若松 小田山周辺 Ⅱ

2018年12月08日 | 福島県
(恵倫寺つづき)

 恵倫寺も二回目の訪問となる。


諏訪家累代精霊(諏訪伊助の墓)

 諏訪伊助は若松城下本二ノ丁で生まれた。家老。戊辰戦争では日光口や土湯方面に出陣。開城後は藩主松平喜徳付で東京有馬藩邸にて謹慎。斗南移住後間もなく会津へ帰り旧士族の生活難打開に奔走した。明治十五年(1882)帝政党の結社届を提出。同年、会津地方の産業のため道路開削要望書を県会へ提出。明治十七年(1884)から明治二十一年(1888)まで北会津郡長。


小川家先祖之墓
(小川鉱太郎 房次郎 郷左衛門の墓)

 墓石側面、裏面に三名の法名と没年月日が記されている。
 小川鉱太郎は郷左衛門の倅。小姓。慶応四年(1868)五月十九日、越後長岡へ使者として出張中、長岡兵とともに戦死。十九歳。
 房次郎は十石三人扶持。大砲一番田中隊。慶応四年(1868)八月二十九日、若松融通寺町にて戦死。十七歳。
 郷左衛門は百五十石。白虎寄合二番太田隊小隊頭。明治元年(1868)九月十四日、若松垣口にて戦死。四十四歳。



桃澤家之墓
(桃澤弾右衛門の墓)

 「幕末維新全殉難者名鑑」に名前を見つけることはできないが、墓誌によれば桃澤弾右衛門は、慶應四年(1868)八月十二日、没。


光稠神霊(林次郎の墓)

 林次郎(治郎とも)は、朱雀寄合一番一柳隊。二百石。慶応四年(1868)五月一日、磐城白河にて戦死。三十一歳。

(善龍寺つづき)


保科八握髯翁墓
妻飯沼千恵子位

 西郷頼母夫妻の墓は、生前から保科家歴代の墓所である善龍寺に用意されていたが、祖先の墓石の何れよりも小さい質素なものである。正面に「保科八握髯翁墓 室飯沼千恵子位」、右側面には命日「明治三十六年四月二十八日」と刻まれる。西郷頼母は、職を賭して藩主松平容保の京都守護職就任を強く諌止、戊辰の役では非戦恭順を主張した。毀誉褒貶相半ばするが、結果から見れば、頼母の主張は間違ってはいなかった。大勢を向うに自説を曲げないという点では、悪く言えば頑固者、少なくとも信念の人であった。


下司庄三郎 下司伊兵衛 同妻イ ク
下司庄四郎 之墓

 下司(げし)伊兵衛は、庄太郎の父。百石。青竜士中三番木本隊。慶応四年(1868)五月二十四日、越後杉沢にて負傷。明治二年(1869)、四月十二日、高田にて死亡。四十二歳。


久室了昌信士(辰野源之進 辰野平太の墓)

 墓石の表面には一人の法名が記されているのみであるが、裏面には辰野源之進、平太の二人が戊辰戦争で戦死したことが記録されている。
 辰野源之進は、源左衛門従弟。朱雀士中一番小森隊。慶応四年(1868)五月一日、磐城白河小丸山にて戦死。二十五歳。
 平太は源左衛門弟。萱野宇兵衛隊。慶応四年(1868)五月十三日、越後朝日山にて戦死。三十五歳。


宮下清之烝守真 同妻墓

 宮下清之丞は孫助の祖父。大賄役。慶応四年(1868)八月二十三日、若松にて戦死。八十一歳。


全忠院雄嶽道英居士(下平庸三郎の墓)

 下平庸三郎は英吉の叔父。幌役。明治元年(1868)九月十五日、会津一ノ堰にて戦死。四十四歳。


中邨重成之墓 中邨重一之墓
(中村謙治・中村帯刀の墓)

 中村謙治、帯刀兄弟の墓である。
 中村謙治は帯刀の弟。大砲林隊。慶応四年(1868)一月五日、淀にて戦死。三十四歳。
 帯刀は四百石。白虎士中一番小隊頭。明治元年(1868)九月十四日、若松城にて戦死。三十九歳。


先祖代々 井上恒之助之墓

 傍らの墓誌に「秋月院忠道盡喜居士 慶應四年辰九月十五日 俗名恒之助」とある。
 井上恒之助は誠志隊半隊頭。明治元年(1868)九月十五日、会津一ノ堰にて負傷。面川(井出中野村とも)にて死亡。四十二歳。


信忠院盡勝勇義居士(井口信太郎の墓)

 井口信太郎は、隼人の倅。朱雀士中二番田中隊。慶応四年(1868)八月二十九日、若松長命寺にて戦死。十八歳。


赤羽四郎之墓

 赤羽四郎は、安政二年(1855)、家禄三百五十石の上級藩士の家に生まれた。藩校日新館に学び、戊辰戦争では鶴ヶ城に籠城して戦った。戦後、猪苗代における謹慎中、同年代の山川健次郎、柴四朗、高木盛之輔らと新政府軍に対し、藩主父子の助命嘆願を行った。明治五年(1872)、アメリカ・エール大学に留学し、帰国後は東京大学予備門で教員を務めたが、明治十三年(1880)以降、外務省に勤務して外交官の道を歩んだ。オランダ弁理公使、清国北京駐在特別全権公使などを歴任し、日露戦争当時はスペイン公使としてバルティック艦隊の動静を探知して日本に報じた。明治四十三年(1910)没。


儀覺善忠居士 儀相忠勇居士 忠覺真儀居士
(小日山善次郎 友四郎 覚次郎の墓)

 小日山善次郎は、善左衛門の倅。五石五斗二人扶持。進撃小室隊。慶応四年(1868)八月二十九日、若松長命寺にて戦死。二十五歳。
 小日山友四郎(友次郎とも)は、善左衛門二男。六石二人扶持。朱雀足軽四番横山隊。慶応四年(1868)九月三日、会津関山にて戦死。十八歳。
 小桧山覚次郎も戊辰役にて戦死。


真如院弧松獨立居士(外山錫次郎の墓)

 外山(としま)錫次郎は、権兵衛二男。朱雀士中四番町野隊。慶應四年(1868)八月十一日、越後石間口小松関門にて戦死。十八歳。


小平捨次郎の墓

 「幕末維新全殉難者名鑑」に同姓同名を発見することはできないが、墓石の没日八月二十三日と合致する名前で検索すると「小島捨次郎」であれば、会津戸ノ口原にて戦死、三十一歳。「小平常三郎(もしくは常五郎)」とすれば若松米代四ノ丁にて自刃。二十三歳。


勇進院教譽義達居士(小笠原主膳の墓)

 小笠原主膳は甚三郎の養子。二百石。朱雀足軽二番隊小隊頭。慶応四年(1868)七月二十九日。二本松にて戦死。三十四歳。


生駒直道墓(生駒五兵衛の墓)

 生駒五兵衛は、初太郎の父。八百石。番頭。慶応三年(1867)十二月十日、京都御所守衛隊長の任を土佐藩に引き継いで大阪に退去した。明治元年(1868)九月十五日、若松城二ノ丸にて戦死。五十七歳。


池上當恕瑩(池上新兵衛の墓)

 池上新兵衛は百石。青竜士中一番鈴木隊半隊頭。慶応四年(1868)五月一日、磐城白河にて戦死。四十歳。


北邑尚衛孝政墓(北村直衛の墓)

 北村直衛は二百十石。大目付。遊撃小山田隊頭。明治元年(1868)九月十四日、若松諏訪神社にて負傷。二十七日、青木にて死亡。四十九歳。


小室金吾左衛門之墓

 小室金吾左衛門は二百石。番頭席(若年寄席とも)。慶応四年(1868)八月二十九日、若松長命寺にて戦死。四十二歳。


忠倫院義孝○○居士(池上貞之助の墓)

 池上貞之助は伝蔵の倅。別撰組佐川隊。慶応四年(1868)一月五日、淀にて戦死。二十一歳。

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