史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

会津若松 小田山周辺 Ⅲ

2018年12月14日 | 福島県
(大窪山墓地つづき)
 会津三日目、最終日の午前中は大窪山における掃苔に費やすことになった。たっぷり三時間あったが、結果的には予定した墓を全て回ることはできなかった。それほど大窪山墓地は奥深いということである。四人で汗まみれになって、時には蜘蛛の巣を払いのけながら、時には藪蚊の襲撃を受けながら、無心に墓を追い求めた。至福の時間であった。


忠了院義運日明居士(鈴木義衛の墓)

 鈴木義衛は十三石二人扶持。徒目付。慶応四年(1868)八月二十七日(二十四日とも)、若松城にて戦死。三十一歳。


智光院忠義日勇居士(名越藤次郎の墓)

 名越藤次郎は、源三郎の叔父。八石三人扶持。別撰春日隊。慶応四年(1868)八月二十九日、若松長命寺にて戦死。六十五歳。


西川重大墓(西川半之丞の墓)

 西川半之丞は三百石。息勝太郎(十七歳)は白虎隊に属して、飯盛山にて自決した。


飯沼一正墓

 飯沼一正時衛は、白虎隊飯沼貞吉の父。自身も青竜寄合一番隊中隊頭として出征している。明治三十六年(1903)没。


真輝彦神霊(飯沼友次郎の墓)


飯沼家之墓

 飯沼友次郎は、時衛の弟。遊撃遠山隊差図役。慶応四年(1868)五月一日、磐城白河根田にて負傷。同年六月十二日、若松にて負傷。二十二歳。


上崎家之墓(上崎且馬の墓)

 上崎(こうざき)且馬は清助の養子。百石。桑名藩付軍目付。慶應四年(1868)八月二十三日、若松蚕養口にて戦死。五十二歳。


坂本義續墓(坂本宇兵衛の墓)

 坂本宇兵衛は、五百石五十石。大砲二番小隊頭。慶應四年(1868)五月二十六日、磐城白河金勝寺山にて負傷。七月九日、死亡。二十七歳。
 墓石背面に記載された事績によれば、坂本右兵衛は足利尊氏の二十二世の末裔に当たるという。


竹崎忠成墓(竹崎郷助の墓)

 竹崎郷助は百石。用所密事。慶応四年(1868)八月二十九日、若松長命寺にて戦死。五十一歳。


浮洲七郎之墓

 浮洲七郎は庄之助の弟。大鳥圭介軍参謀。慶応四年(1868)閏四月二十一日、下野今市にて戦死。三十一歳。


淄川先生墓(高津平蔵の墓)

 高津淄川(しせん)は、字は平甫。通称は平蔵。天明五年(1785)生まれ。江戸で古賀精里に学び、文化五年(1808)、藩の蝦夷地出兵で樺太にわたり「終北録」を残した。対馬で朝鮮通信使の応接した際には「対州日記」を著した。藩校日新館で教授するとともに,藩主の侍講を務めた。慶応元年(1865)死去。八十一歳。
 明治九年(1876)の思案橋事件の高津忠三郎の父である。


高津家之墓(高津豊太郎の墓)

 高津(たかつ)豊太郎は八郎の倅。朱雀士中三番原田隊。慶応四年(1868)八月二十九日、若松融通寺町にて戦死。十九歳。


帽山先生之墓(安部井帽山の墓)

 安部井帽山は安永七年(1778)生まれ。儒官安部井澹園(たんえん)の養子となり江戸で古賀精里に学んだ。帰藩後儒官奏者番。藩士の教育や「会津風土記」の編修にあたった。弘化二年(1845)死去。六十八歳。「四書訓蒙輯疏」「四書剳記」などの著作がある。


和田義方後妻 同義室妻 同長女 墓
(和田コマ ナカ ミワの墓)

 和田ナカは甚吾の妻(二十歳)。コマは甚吾の娘(三歳)、ミワは甚吾の継母(四十一歳)。慶應四年(1868)八月二十三日、自宅にて自害。


飯河光義之墓

 飯河光義は、通称小膳。蛤御門の変では二番槍の功をもって禄百石を賜り、外様組付を仰せ付けられた。明治九年(1876)思案橋事件の後、旧知の中根米七を自邸に匿ったが、米七は明治十一年(1878)八月熊倉村の光明寺墓地内にて自決。明治十五年(1882)、旧藩士中條辰頼らと協力して私立学校を創立し旧藩校の名に因んで日新館と称した。光義はここで教授となり子弟の教育に専念した。明治十七年(1884)没。享年六十。墓石には漢文の墓碑銘がぎっしりと刻まれている。

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