(深沢家屋敷跡)
あきる野市深沢7番地に所在している深沢家屋敷跡地である。跡地に屋敷は既になく、五日市憲法が発見された土蔵のみが残されている。
江戸中期以前の深沢家の沿革は詳らかではないが、江戸時代後半より土地集積を行い、山林地主として大きく家産を伸ばし、江戸中期に深沢村の名主役に就任していた。幕末には同心株を譲り受け、八王子千人同心に就き、村内鎮守社の神官も勤めていた。
深沢家屋敷跡
明治維新を迎え、深沢家を継いだ名生(なおまる)は深沢村の戸長に就任し、息子の権八は村用掛に任じられ、ついで神奈川県会議員に当選している、
名主権八親子は、三町十四ヶ村から四十名近い会員を集め、学習会、討論会、研究会などを行う民権結社「学芸講談会」の指導的立場にあり、五日市地域の自由民権運動の中心的人物であった。
深沢家屋敷跡
当地は江戸時代後期の名主屋敷の旧態をとどめ、また三多摩自由民権運動を象徴する五日市憲法草案発見の場所であり、当時五日市地域で民権運動の中心となっていた豪農民権家の生活様態を推定し得る遺蹟として貴重なものである。
深沢家土蔵
五日市憲法草案は、明治十三年(1880)に深沢権八を中心に結成された学習結社五日市学芸講談会の有志と、宮城県栗原郡白幡村U(現・栗原市志和姫)に生まれ、五日地勧能学校の教師としてこの地を訪れていた千葉卓三郎が中心となって明治十四年(1881)に起草した、自由民権思想に溢れた私擬憲法草案である。
昭和四十三年(1968)、東京経済大躅教授であった色川大吉氏らが朽ちかけていた土蔵を調査し、二階から箪笥や行李、長持ちなどの中にぎっしりと詰まった古文書約一万点を発見した。草案は今にも壊れてしまいそうな行李の中に、古びた小さな風呂敷に包まれて眠っていた。起草から約九十年が経っていた。
屋敷跡は更地になっており、一角に土蔵が残されている。この土蔵は平成六年(1994)に修理が施されたものである。
権八深澤氏墓
屋敷の北側に深沢家墓所があり、そこに深沢権八の墓がある。
深沢権八は、文久元年(1861)に名主深沢名生の長男に生まれた。勧能学舎の一期生として学び、卒業後は学務委員や深沢村の代議人を務め、明治九年(1876)には十五歳の若さで村用掛(村長)に任じられた。五日市では自由民権運動の盛り上がりを受け手、明治十三年(1880)頃、五日市学芸講談会が発足した。権八も幹事の一人として名を連ね、地域の自由民権運動の中心的人物となった。深沢家の蔵には、商用で上京した折などに買い求めた大量の書籍が残されており、権八が大変な読書家、勉強家であったことが伺われる。その蔵書は、千葉卓三郎をはじめとする学芸講談会の会員たちが大いに活用していたらしく、彼らの学習をサポートする役割も担っていた。民権活動の傍ら、「武陽」という号を用いて詩編を制作し、七百首以上の漢詩や十七冊の詩編詩集を残している。明治十六年(1883)、千葉卓三郎が死去した際には、葬儀を取り仕切り、卓三郎を追悼する詩を草している。明治二十三年(1890)十二月、二十九歳で病没。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます