史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

新居浜 Ⅱ

2019年05月11日 | 愛媛県
(広瀬家墓所)
 四年振りの新居浜である。宿泊したホテルから広瀬宰平の墓所まで、六キロメートル、歩いて一時間半という距離であったが、せっかくなので訪問することにした。朝五時に起きて、まだ暗いうちに出発した。さすがにこの時間、まだバスも動いておらず歩いて向かうしかない。広瀬家の墓所は、住所でいうと新居浜市山田町9に当る。高速道路を越えた山裾にある。周辺は新居浜では桜の名所の一つとなっているが、まだ蕾であった。


広照院英誉寿山保水大居士 広瀬宰平の墓(左)
養父母の墓(右)

 広瀬家墓所には、広瀬宰平の墓をはじめ、宰平の養父母、妻、先妻、先々妻らの墓が並べられている。養父母の墓石の隣に建てられた石燈籠には「TOKOSHIE NO HOMARE(永久の誉れ)」とローマ字で刻まれている。この石燈籠は、昭和十五年(1940)五月、別子開坑二百五十年祭に際し、住友吉左衛門(十六代友成)の宰平墓参を記念したものである。
 広瀬家墓所から一段下がった場所には、従業員の供養塔が並ぶ。
 墓所からは生前の広瀬宰平がその発展に尽くした新居浜の街を見下ろすことができる。

(瑞応寺)
 瑞応寺は、住友家や別子銅山と所縁の深い曹洞宗の禅寺である。別子で発生した火災や水害の犠牲者の墓などがある。本堂左手の長泉堂は、別子銅山の殉難者を祀っている。


瑞応寺

(日暮別邸記念館)


日暮別邸記念館

 日暮別邸は、新居浜市街から瀬戸内海の沖合約二十キロメートルの四阪島に、明治三十九年(1906)住友家の別邸として建設されたものである。平成三十年(2018)、住友グループ二十社によって、四阪島を遠望できる王子町の山頂に移築された。明治の近代化に伴い、製錬所を別子山中から新居浜に移転したところ、製錬所から拝出される亜硫酸ガスにより近隣の農作物に深刻な被害が出た。時の総理事伊庭貞剛は、製錬所を当時無人島であった四阪島に移転することを決意し、明治三十年(1897)、建設工事に着手した。製錬所が操業を開始したのは明治三十八年(1905)のことであった。
 多額の投資と歳月を費やした製錬所の移転であったが、予想に反して煙害は拡大し、最終的にペテルゼン式硫酸工場の導入により公害を解決したのは昭和十四年(1939)のことであった。

 日暮別邸は、製錬所の四阪島移転を提議し、具体化した鉱山技師塩野門之助が、日が暮れるまで構想を練ったといわれる丘に建てられた。のちに和館も増設されたが、移築されたのは洋館部分のみ。外壁内装ともオリジナルの建材を95%再利用したという。
 日暮別邸記念館近くには、四阪島にあった大煙突を模した展望台が設けられ、北は新居浜市の工場群や遠く四阪島、南には銅山越えまで見渡すことができる。


展望台より新居浜市街を臨む
御代島方面
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