(太田行政センター)
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太田宿本陣跡地
八王子から武蔵野線、東武伊勢崎線を経由して三時間超。ここから金龍寺まではバスもレンタサイクルもないので、歩くしかない。太田駅北口を出て、東武伊勢崎線と並行して走っているのが旧日光例幣使道である。太田行政センターの前に本陣跡の石碑が置かれているが、これ以外にこの近辺が宿場町であったことを知らせてくれるものは見当たらない。
元治元年(1864)十一月十一日、上州路に入った天狗党一行は太田の金龍寺に宿泊した。翌十二日は雨で、天狗党はこの寺に二日続けて宿泊したが、その間、太田宿で兵糧軍資金などの金穀調達に努めた。
(金龍寺)
金龍寺は、越前藤島で戦死した新田義貞を弔うため、応永五年(1398)、新田岩松系の岩松三河守源満純が開基した寺である。その後、応永二十四年(1417)、金山城主横瀬貞氏(義貞の三男義宗の子)が越前からこの地に移した。天正十八年(1590)、金山城主横瀬信濃守国繁が常陸牛久に移封されると、寺も移った。これを惜しんだ、館林城主榊原康政が田畑八町余りを寄進し、寺を再興した。今も新田義貞の木像、墓が残されている。門前には新田義貞を顕彰する石碑が建てられている。昭和八年(1933)の建立。篆額は、新田義貞の末裔と称する徳川家十六代当主徳川家達。
金龍寺
左中将新田君誠忠碑
(大光院)
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大光院
金龍寺のすぐ南に大光院がある。元治元年(1864)十一月、大田宿に到達した天狗党一行を、金井五郎(維新後、之恭)が訪ねた。彼らが金井と面会したのが、大光院だったといわれる。金井五郎は、天狗党に対して高崎藩・伊勢崎藩との衝突を避けて間道を行くことを助言した。
金井五郎は、その三年後の慶応三年(1867)、岩松万次郎(後の新田俊純)を担いで挙兵しようとしたが、事前に露見して岩鼻代官所の獄に繋がれた。
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太田宿本陣跡地
八王子から武蔵野線、東武伊勢崎線を経由して三時間超。ここから金龍寺まではバスもレンタサイクルもないので、歩くしかない。太田駅北口を出て、東武伊勢崎線と並行して走っているのが旧日光例幣使道である。太田行政センターの前に本陣跡の石碑が置かれているが、これ以外にこの近辺が宿場町であったことを知らせてくれるものは見当たらない。
元治元年(1864)十一月十一日、上州路に入った天狗党一行は太田の金龍寺に宿泊した。翌十二日は雨で、天狗党はこの寺に二日続けて宿泊したが、その間、太田宿で兵糧軍資金などの金穀調達に努めた。
(金龍寺)
金龍寺は、越前藤島で戦死した新田義貞を弔うため、応永五年(1398)、新田岩松系の岩松三河守源満純が開基した寺である。その後、応永二十四年(1417)、金山城主横瀬貞氏(義貞の三男義宗の子)が越前からこの地に移した。天正十八年(1590)、金山城主横瀬信濃守国繁が常陸牛久に移封されると、寺も移った。これを惜しんだ、館林城主榊原康政が田畑八町余りを寄進し、寺を再興した。今も新田義貞の木像、墓が残されている。門前には新田義貞を顕彰する石碑が建てられている。昭和八年(1933)の建立。篆額は、新田義貞の末裔と称する徳川家十六代当主徳川家達。
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金龍寺
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左中将新田君誠忠碑
(大光院)
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大光院
金龍寺のすぐ南に大光院がある。元治元年(1864)十一月、大田宿に到達した天狗党一行を、金井五郎(維新後、之恭)が訪ねた。彼らが金井と面会したのが、大光院だったといわれる。金井五郎は、天狗党に対して高崎藩・伊勢崎藩との衝突を避けて間道を行くことを助言した。
金井五郎は、その三年後の慶応三年(1867)、岩松万次郎(後の新田俊純)を担いで挙兵しようとしたが、事前に露見して岩鼻代官所の獄に繋がれた。
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