史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「明治国家をつくった人びと」 瀧井一博著 講談社現代新書

2017年08月25日 | 書評
「明治国家をつくった人びと」と問われて誰の名前を思い浮かべるだろうか。明治国家をつくるという壮大な作業に携わった人は、十人や二十人ではないはずである。国家といっても、法制なのか、陸海軍なのか、学制なのか、地方自治なのか、芸術文化なのか、分野によって連想する顔と名前は様々である。筆者の専門は憲法史・国政史であり、自ずとこの分野に収束しているが、それでも本書で紹介される人々は多様である。
 まず幕末期に西欧と接触した例として、文久使節団や長州ファイブを紹介する。この記述で一番興味を引いたのが高杉晋作の上海渡航であった。高杉晋作は文久二年(1862)四月、密航して上海の惨状を目の当たりにする。「上海は中国領でありながら、英仏の土地といっても過言ではない。イギリス人やフランス人が町中を歩けば、中国の人はみな避けて道を譲る」という状況であった。高杉晋作は西欧文明の強大さに衝撃を受け、攘夷の不可を悟ったとされる。
 ところが帰国した晋作は、いきなり品川御殿山に幕府が建設していた公使館を焼討するのである。この飛躍した行動は、第三者には理解不能である。司馬遼太郎先生は、この理由を「晋作の戦好き」に求めた。
―――(戦争でなきゃ、どうにもならん)
と、思うほどこの青年は戦争が好きであった。
というのだが、それが長州藩をまるごと無謀な攘夷活動に投じる理由になるのだろうか、という疑問が残る。
 本書では、晋作が上海の惨状の原因を中国の人が「攘夷の心を失った」ことに見出したとする。だから帰国後の晋作は、以前にも増して過激な攘夷主義者になったというのである。御殿山公使館焼討前後の晋作の心理変化を初めて腹に落ちるかたちで解説してもらった気がする。
 本書後半では、明治憲法を作った人々が登場する。伊藤(博文)が明治憲法を作り、山県(有朋)が教育勅語や地方自治を作ったといわれるが、真の起草者は井上毅で、伊藤も山県も彼の掌中で立ち回っていたに過ぎないという見方も学会では根強い。彼こそ「明治国家形成のグランドデザイナー」と称する専門家もいるという。
本書最終章では、伊藤と井上の論争を解説する。明治憲法制定の過程で、伊藤と井上の間では天皇と内閣の政治的地位をめぐって激しい論争が展開された。
井上は、伊藤の起草した夏島草案は行政権の主体としての内閣を強調しすぎている、天皇の行政大権を冒すことになっていると主張し、夏島草案の内閣規定をことごとく削除するよう求めた。井上がここまで天皇親政にこだわった背景には、天皇親政が明治維新の基本理念という強い信念があったのであろう。明治維新の主体となった長州に属する伊藤博文が連帯責任制の内閣という規定を憲法に導入しようとしていたのに対し、藩閥外の肥後出身の井上毅が「絶対的君主の信任とそれに対する責任を負った政治のあり方」を主張したというのが、誠に興味深い。
井上には議会に対する絶望的な不信感があったという。「議会は必ずしも国民全体の社会的利害関係の真の代表たり得ないことを喝破」した。議会政治に慣れた我々にしてみれば、そこまで議会を否定するのもどうかという印象を受けるが、翻って現代の議会の有様を見れば、果たして議会は社会の利害関係を反映する鏡となっていると言えるのだろうか。井上の不信感もあながち的外れとはいえないのではないかという気がするのである。
 本書では伊藤博文、山県有朋、井上毅、穂積八束、金子堅太郎、大鳥圭介、加藤弘之、渡辺洪基、箕作麟祥、栗本鋤雲、ジョセフ彦、玉虫左太夫ら、明治国家創成に関わった様々な人物を紹介する。彼らに共通するのは「明治の政治家たちはみな比類なき知性の働きに支えられて」いることである。端的にいえば、国家のために非常によく勉強しているということであり、国家のことを案じて真剣に熱い議論を交わしていたことが、残されている資料や膨大な蔵書からも伝わってくる。現在、ワイドショーの餌食となっている政治家の言道の軽いことを思うと、隔世の感を否めない。

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