史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

小郡

2016年06月25日 | 福岡県
(乙隈)
 小郡市乙隈の宝満川沿いに「彼岸土居古戦場」を示す史跡説明板が建てられている。
 明治十年(1877)四月一日、明治新政府に不満を持つ旧福岡藩士の一部約百五十名は、轟警察署(現・鳥栖市)を襲ったが失敗。秋月の党と合流するために秋月に向かう途中、乙隈の彼岸土居で昼食のため休んでいた。その時、松崎通りの往還を福岡から熊本に輸送する弾薬等を積んだ車数十輌が通過するのを見つけ、これを奪おうとした。政府軍はこれを予期して、近くまで進出していた久留米の一個中隊と巡査隊六十名は、たまたま小倉から冷水峠を越え、木葉(熊本県)に向かっていた広島鎮台一個中隊に連絡した。広島鎮台兵は、丸町村から西小田村、津古村に廻り、横隈村の井ノ浦溜池付近に陣をしいた。久留米から来た鎮台兵と巡査隊は、干潟村側の往還より夜須川(草場川)の新井手の上に注ぐ三国用水に陣をしき、残党をめがけて発砲した。残党は蜘蛛の子を散らすように逃げ、主力は横隈村隼鷹神社の北方八竜付近に逃げて井ノ浦溜池付近の広島鎮台兵との挟撃に遭い、その場にてたちまち三十余名が戦死した。この場所における戦闘で、その他逃走中に討ち取られた者五名、捕縛十名余、自首七名、残りは秋月方面に遁走したという。


彼岸土居古戦場

(旅籠油屋)
 松崎宿は久留米藩の参府街道として整備され、宿駅が置かれた。薩摩街道と秋月街道が交差する地点であり、府中宿や羽犬塚宿とともに久留米藩領下の八宿の一つとして重視された。今も往時の姿を留める旅籠油屋は、西郷隆盛が愛用したといわれ、「油屋の二階の座敷に愛犬が上ってきた」とか、「下戸の西郷が油屋で酒を飲んだ」といった伝承とともに、西郷が使用したという盃なども伝わっている。私がここを訪れたとき、油屋は改修工事中であった。


旅籠油屋

 松崎宿には高山彦九郎が二度にわたり宿泊したという記録が残る。ほかにも平野國臣が薩摩に落ち延びる途中、月照とともに松崎宿に宿泊したとか、西南戦争の際には、総督有栖川熾仁親王が油屋に本営を置いたという歴史がある。のちには乃木希典も当地を訪れたこともあったという。

(古飯)
 小郡市古飯(ふるえ)は、古屋佐久左衛門と高松凌雲兄弟を生んだ土地である。「幕将古屋佐久左衛門誕生之地」と「高松凌雲先生誕生之地」二つの碑が並んで建てられている。


高松凌雲先生誕生之地碑

 高松凌雲は天保七年(1836)、古飯の庄屋高松与吉の三男として生まれた。安政三年(1856)、二十一歳のとき、久留米藩家老有馬飛騨の家臣川原弥兵衛の養子に入ったが、安政六年(1859)脱藩。兄佐久左衛門を頼って江戸に向かった。江戸の石川桜所や大阪の緒方洪庵に入門して蘭方医学を修め、横浜で英語を学んだ。慶応元年(1865)、一橋家に招かれ、翌年一橋慶喜の侍医となった。ほどなく慶喜の名代としてパリ万国博覧会に派遣されることになった松平民部大輔(昭武)の付添医を命じられ、慶應三年(1867)一月、横浜港を出帆してフランスへ渡り、西欧諸国を視察した。慶応四年(1868)、江戸城無血開城の報に接し、五月に帰国すると、開陽丸に乗船して榎本武揚と行動をともにして蝦夷へと向かった。榎本のもとで箱館病院の院長となるが、西欧で学んだ赤十字の博愛精神を説いて、敵味方の別なく戦傷者を受け入れて治療を施した。このことが新政府軍の黒田清隆に評価され、旧幕府軍との和平仲介を依頼されることになった。凌雲の斡旋の結果、明治二年(1869)五月、榎本武揚は降伏を決意した。戊辰戦争終結後、幾度も明治政府から仕官を勧められたが固辞し、一医師として過ごした。明治十二年(1879)、医師仲間と「同愛社」を創設し、貧民施療のために尽くした。大正五年(1916)、肺結核のため東京で没した。享年八十一。


幕将古屋佐久左衛門誕生の地碑

 古屋佐久左衛門は、天保四年(1833)の生まれ。すぐ下の弟が高松凌雲である。嘉永四年(1851)、十九歳のとき、医学を志して長崎、大阪に向かうが、自分が医者に適さないことを悟り、江戸に出て苦行苦学を認められ幕府御家人古谷家の養子に入った。漢学、蘭学、ロシア学、算術、砲術、剣術などを修め、外国語も英語、オランダ語、ロシア語を習得した。元治元年(1864)、英学所教授方助、慶応二年(1866)、歩兵指図役、翌年には軍艦役並勤方を命じられた。この間、英国式の操兵術を学びながら、沼間新次郎らと「英国歩兵操典」や「歩兵操練図解」など、日本で初めて外国兵書を翻訳した。慶応四年(1868)一月、鳥羽伏見の敗戦後、佐久左衛門は武州方面への脱走兵を統率して衝鋒隊を結成し、その総督となった。江戸を脱した衝鋒隊は、信越を転戦して会津救援に向かうが、形勢不利とみて離脱。同年十月、榎本艦隊と合流して蝦夷に向かった。榎本艦隊は箱館を占拠、同年末には蝦夷地を平定した。しかし、明治二年(1869)四月、反攻を開始した新政府軍に蝦夷地上陸を許すと、その後、幕府軍は敗走を続けた。五月十二日、佐久左衛門は五稜郭への艦砲射撃により重傷を負った。弟凌雲の運営する箱館病院に収容されたが、治療の甲斐なく翌月十四日、没した。享年三十七。

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