(敬止義塾跡)
敬止義塾跡
筑前町二字鐘木塚の旧長崎街道沿いに敬止義塾址碑が立っている。福岡藩士であった杉山灌園(かんえん)が、明治十年(1877)頃、自宅の離れで塾を開いていた。近隣から三十名ほどの塾生があり、寄宿している者もあった。教科書として「日本外史」「十八史略」「四書」などが用いられた。明治二十三年(1890)、灌園の死去とともに閉塾された。
(西福寺)
「歴史読本 幕末維新人物総覧」(昭和五十一年臨時増刊)によれば、三隅十郎の墓が筑前町中牟田の西福寺にあるという。ちょうど本堂の前で寺の方が洗車されていたので、「三隅十郎の墓を探している」と告げたが、「ここには三隅姓の墓はありません」という答えが返ってきただけであった。

西福寺
三隅十郎は、天保九年(1838)、筑前秋月に生まれた。名は勘蔵といった。商人で秋月の素封家。福岡在住の叔父三隅勘三郎の感化により、早くから勤王思想を抱いた。秋月藩士海賀宮門ら志士と交わり、財政的支援を惜しまなかった。平野國臣ら筑前勤王諸士の出入も多く、五卿大宰府寄寓の折は、その家臣らを通じて大いに尽力した。慶応二年(1866)、藩の咎めを受けて幽閉。維新後浜田県小属をつとめたが退官。生涯を勤王志士らの援助に捧げた。明治二十三年(1890)、五十七歳にて没。

敬止義塾跡
筑前町二字鐘木塚の旧長崎街道沿いに敬止義塾址碑が立っている。福岡藩士であった杉山灌園(かんえん)が、明治十年(1877)頃、自宅の離れで塾を開いていた。近隣から三十名ほどの塾生があり、寄宿している者もあった。教科書として「日本外史」「十八史略」「四書」などが用いられた。明治二十三年(1890)、灌園の死去とともに閉塾された。
(西福寺)
「歴史読本 幕末維新人物総覧」(昭和五十一年臨時増刊)によれば、三隅十郎の墓が筑前町中牟田の西福寺にあるという。ちょうど本堂の前で寺の方が洗車されていたので、「三隅十郎の墓を探している」と告げたが、「ここには三隅姓の墓はありません」という答えが返ってきただけであった。

西福寺
三隅十郎は、天保九年(1838)、筑前秋月に生まれた。名は勘蔵といった。商人で秋月の素封家。福岡在住の叔父三隅勘三郎の感化により、早くから勤王思想を抱いた。秋月藩士海賀宮門ら志士と交わり、財政的支援を惜しまなかった。平野國臣ら筑前勤王諸士の出入も多く、五卿大宰府寄寓の折は、その家臣らを通じて大いに尽力した。慶応二年(1866)、藩の咎めを受けて幽閉。維新後浜田県小属をつとめたが退官。生涯を勤王志士らの援助に捧げた。明治二十三年(1890)、五十七歳にて没。
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