(長生寺)
秋月を訪ねたのは、ほぼ二十年振りである。二十年という時間は、街の風景も一変するに十分な時間であるが、秋月の街はほぼ記憶の中の風景と変わらなかった。前回は時間の制約もあり史跡を回りきれなかったが、今回は多少時間的余裕があるので、計画した史跡は全て訪ねることができた。朝から雨であったが、予報では暴風雨に変わるということだった。まだ秋月を歩いている時間は暴風雨というほどではなかった。雨に濡れる小京都も風情があった。機会があれば、もう一度訪ねて見たいと思わせる街である。
長生寺には首謀者である今村百八郎兄弟の墓がある。前回訪問時には訪ね当てられなかった三兄弟の墓を訪問する。
長生寺
秋月における反乱は、明治九年(1876)十月二十四日、旧熊本藩士太田黒伴雄を首謀者とする約百七十名の敬神党(神風連)の蹶起に呼応して、旧秋月藩の士族が挙兵した事件のことをいう。
敬神党の挙兵から三日後の十月二十七日、今村百八郎を隊長とする秋月党が挙兵。明元寺にて警察官を殺害した。これは我が国初の警察官の殉職事件といわれる。
秋月党の中心人物は、今村のほか、宮崎車之助、磯淳、土岐清、益田静方らで、総勢約四百の秋月士族が蹶起した。
彼らは萩の前原一誠とも通じ、また豊津藩の杉生十郎もこれに呼応する約束であったが、杉生らは監禁されていて実行できなかった。宮崎車之助らが豊津藩と談判している最中、乃木希典率いる小倉鎮台が秋月に入り、攻撃を開始した。政府軍の攻撃によって秋月側は死者十七名を出し、江川村栗河内へ退却し解散した。磯淳、宮崎車之助、土岐清、戸原安浦、戸波半九郎、宮崎哲之助、磯平八ら七名は自刃して果てた。宮崎車之助の介錯は実弟哲之助が行った。辞世
散ればこそ別れもよけれ三芳野の
散らずば花の名義なからめ
宮崎哲之助の辞世
明らけき月をかくせしむら雲を
払ひもはてず死ぬる悲しさ
今村百八郎は、同志二十六名とともに秋月に戻り、秋月党討伐本部を襲撃し、県高官二名を殺害した。その後、反乱に参加した士族を拘留している酒屋倉庫を焼き払って逃走したものの、十一月二十四日、逮捕され、十二月三日、福岡臨時裁判所の判決が言い渡され、即日斬首された。今村百八郎の辞世
天地に霊と屍は返すなり
今ぞ別れを告ぐる世の人
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/9d/1f789b2ddea133f13ae73ca0d5fb9062.jpg)
宮崎三兄弟の墓
三兄弟の墓は、長生寺山門の左手、昼間でも光の当たらない藪の中にある。
秋月は本当に鄙びた街で、どうしてこんな僻地で乱などという大それたことを企んだのか、全く不可思議である。明治維新も薩摩・長州・土佐という辺境から起こった。辺境エネルギーというべきものが、ここ秋月にも発生したのかも知れない。
秋月の乱は、福岡の連隊を率いる乃木少佐の手によって誠に呆気なく鎮静されてしまう。秋月の若者たちは明治維新に乗り遅れた反省から、先駆けて乱を起こしたが、結局薩摩が起たないためにほとんど反抗もできないまま抑えられてしまったのである。
緒方家之墓(緒方春朔墓)
長生寺には緒方春朔の墓がある。
緒方春朔は、寛延元年(1748)の生まれ。長崎で医学を修め、種痘の研究をして秋月に戻った。この頃、秋月で天然痘が流行し、春朔は寛政二年(1790)、人痘による種痘に成功した(ジェンナーによる牛痘種痘の成功の六年前のことである)。国はこの業績を認め、大正五年(1916)、正五位を追贈した。文化七年(1810)、六十三歳にて没。
(田中天満宮)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/16/eca547813cfd95ff9063360ede8ee1ab.jpg)
田中天満宮
淡島神社
秋月の乱では、宮崎車之助、今村百八郎らが西福寺で挙兵したが、そこに入りきれなかった一団は田中天満宮に集結した。境内には樹齢四百年というイヌマキの大樹がある。百四十年前の反乱を見下ろしていたであろう。
(古心寺)
古心寺は秋月黒田家の菩提寺で、境内に墓所がある。また、「我が国最後の仇討事件」で知られる臼井六郎の墓がある。
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古心寺
臼井亘理(簡堂)清子の墓
臼井六郎墓
臼井亘理(六郎の父)は、鳥羽伏見の戦いのため上京していたが、慶應四年(1868)五月に帰藩。その夜、何者かが家に押し入り、亘理とその妻を殺害した。のちに藩内尊攘派の干城隊の一瀬直久の仕業であったことが知れ、六郎は敵討ちを決意し、一瀬を追うために上京した。六郎が仇討を決行したのは、明治十三年(1880)。父の形見の短刀で一瀬を討ち果たした六郎は、その足で警察に自首してでた。既に仇討禁止令が出された後のことであり、厳密に法律を適用すれば、死罪が適当であったが、世論は六郎に同情的であり、裁判では終身禁固が言い渡された。
のち大赦により出獄し、故郷に帰った。大正六年(1917)六十歳にて死去。古心寺の両親の墓の傍らに葬られた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/64/806b2bccecfd922f297389d2b653b24c.jpg)
黒田家墓所
十一代藩主長義は文久二年(1862)、わずか十六歳にて死去。嗣子がなかったため、その死は当面秘匿され、跡を弟の長徳が継いだ。
黒田長義公墓
黒田長元公墓
黒田長元は、第十代秋月藩主。父は土佐藩の山内豊策。万延元年(1860)家督を六男長義に譲って隠居した。慶応三年(1867)、五十七歳にて死去。
黒田長徳公墓
第十二代藩主長徳は、最後の秋月藩主となった。秋月藩は福岡藩の支藩で、佐幕色が強かったが、大政奉還後は官軍についた。これを不服とする反対派との対立に加え、上層部の勢力争いがからみ藩内は混乱した。明治二年(1869)、版籍奉還により藩知事。明治四年(1871)廃藩置県により東京に移住した。明治二十五年(1892)、四十五歳にて死去。
(戸原継明(夘橘)誕生地)
戸原継明(夘橘)誕生地
戸原継明は、天保六年(1835)、秋月に生まれた。父は藩医戸原一伸。夘橘(うきつ)と称した。二十歳のとき熊本の儒者木下業廣(韡村)の門に入り、江戸に出て塩谷世弘(宕陰)に学んだ。同藩士海賀宮門と交際して尊王論を唱え、文久二年(1862)、島津久光の上京時には、これを海賀と平野國臣に報じ、東西呼応しようとしたが、嫌疑を受けて国許で幽閉された。文久三年(1863)六月、赦されて、同年八月脱藩して長州へ赴いて七卿に謁した。そのとき中山忠光の大和挙兵を聞き、これに応じるために平野とともに七卿の一人澤宣嘉を擁して但馬に赴き、生野代官所を襲撃して兵を挙げたが、幕府の反撃により岩須賀山妙見堂にて自刃した。このとき戸原夘橘は二十九歳という若さであった。行動を共にしていたのは長州藩士南八郎こと河上彌市、長野清助、下野猛彦、小田村信一、伊藤三郎、白石廉作、井関英太郎、久富惣介、和田小傳次、西村清太郎。彼らは奇兵隊士で、白石正一郎の弟廉作三十六歳を除くと、いずれも十代から二十代の若年で、戸原を慕っていたという。彼らの介錯を済ませると
「武士の最期を見よ」
と大喝するや、刀を咥えて巌上より飛び降り咽喉を貫いて壮烈な最期を遂げた。墓所は京都霊山。
秋月を訪ねたのは、ほぼ二十年振りである。二十年という時間は、街の風景も一変するに十分な時間であるが、秋月の街はほぼ記憶の中の風景と変わらなかった。前回は時間の制約もあり史跡を回りきれなかったが、今回は多少時間的余裕があるので、計画した史跡は全て訪ねることができた。朝から雨であったが、予報では暴風雨に変わるということだった。まだ秋月を歩いている時間は暴風雨というほどではなかった。雨に濡れる小京都も風情があった。機会があれば、もう一度訪ねて見たいと思わせる街である。
長生寺には首謀者である今村百八郎兄弟の墓がある。前回訪問時には訪ね当てられなかった三兄弟の墓を訪問する。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/1d/e5c81eed7bb523c7006c38e24b0a62fe.jpg)
長生寺
秋月における反乱は、明治九年(1876)十月二十四日、旧熊本藩士太田黒伴雄を首謀者とする約百七十名の敬神党(神風連)の蹶起に呼応して、旧秋月藩の士族が挙兵した事件のことをいう。
敬神党の挙兵から三日後の十月二十七日、今村百八郎を隊長とする秋月党が挙兵。明元寺にて警察官を殺害した。これは我が国初の警察官の殉職事件といわれる。
秋月党の中心人物は、今村のほか、宮崎車之助、磯淳、土岐清、益田静方らで、総勢約四百の秋月士族が蹶起した。
彼らは萩の前原一誠とも通じ、また豊津藩の杉生十郎もこれに呼応する約束であったが、杉生らは監禁されていて実行できなかった。宮崎車之助らが豊津藩と談判している最中、乃木希典率いる小倉鎮台が秋月に入り、攻撃を開始した。政府軍の攻撃によって秋月側は死者十七名を出し、江川村栗河内へ退却し解散した。磯淳、宮崎車之助、土岐清、戸原安浦、戸波半九郎、宮崎哲之助、磯平八ら七名は自刃して果てた。宮崎車之助の介錯は実弟哲之助が行った。辞世
散ればこそ別れもよけれ三芳野の
散らずば花の名義なからめ
宮崎哲之助の辞世
明らけき月をかくせしむら雲を
払ひもはてず死ぬる悲しさ
今村百八郎は、同志二十六名とともに秋月に戻り、秋月党討伐本部を襲撃し、県高官二名を殺害した。その後、反乱に参加した士族を拘留している酒屋倉庫を焼き払って逃走したものの、十一月二十四日、逮捕され、十二月三日、福岡臨時裁判所の判決が言い渡され、即日斬首された。今村百八郎の辞世
天地に霊と屍は返すなり
今ぞ別れを告ぐる世の人
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/9d/1f789b2ddea133f13ae73ca0d5fb9062.jpg)
宮崎三兄弟の墓
三兄弟の墓は、長生寺山門の左手、昼間でも光の当たらない藪の中にある。
秋月は本当に鄙びた街で、どうしてこんな僻地で乱などという大それたことを企んだのか、全く不可思議である。明治維新も薩摩・長州・土佐という辺境から起こった。辺境エネルギーというべきものが、ここ秋月にも発生したのかも知れない。
秋月の乱は、福岡の連隊を率いる乃木少佐の手によって誠に呆気なく鎮静されてしまう。秋月の若者たちは明治維新に乗り遅れた反省から、先駆けて乱を起こしたが、結局薩摩が起たないためにほとんど反抗もできないまま抑えられてしまったのである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/f8/56a704215d3e32be0d5030dd4202a5c6.jpg)
緒方家之墓(緒方春朔墓)
長生寺には緒方春朔の墓がある。
緒方春朔は、寛延元年(1748)の生まれ。長崎で医学を修め、種痘の研究をして秋月に戻った。この頃、秋月で天然痘が流行し、春朔は寛政二年(1790)、人痘による種痘に成功した(ジェンナーによる牛痘種痘の成功の六年前のことである)。国はこの業績を認め、大正五年(1916)、正五位を追贈した。文化七年(1810)、六十三歳にて没。
(田中天満宮)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/16/eca547813cfd95ff9063360ede8ee1ab.jpg)
田中天満宮
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/e9/52fd4f71ae3ed54df55c04955843d768.jpg)
淡島神社
秋月の乱では、宮崎車之助、今村百八郎らが西福寺で挙兵したが、そこに入りきれなかった一団は田中天満宮に集結した。境内には樹齢四百年というイヌマキの大樹がある。百四十年前の反乱を見下ろしていたであろう。
(古心寺)
古心寺は秋月黒田家の菩提寺で、境内に墓所がある。また、「我が国最後の仇討事件」で知られる臼井六郎の墓がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/33/70b2651267ebc82ec409dea5b58794ee.jpg)
古心寺
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臼井亘理(簡堂)清子の墓
臼井六郎墓
臼井亘理(六郎の父)は、鳥羽伏見の戦いのため上京していたが、慶應四年(1868)五月に帰藩。その夜、何者かが家に押し入り、亘理とその妻を殺害した。のちに藩内尊攘派の干城隊の一瀬直久の仕業であったことが知れ、六郎は敵討ちを決意し、一瀬を追うために上京した。六郎が仇討を決行したのは、明治十三年(1880)。父の形見の短刀で一瀬を討ち果たした六郎は、その足で警察に自首してでた。既に仇討禁止令が出された後のことであり、厳密に法律を適用すれば、死罪が適当であったが、世論は六郎に同情的であり、裁判では終身禁固が言い渡された。
のち大赦により出獄し、故郷に帰った。大正六年(1917)六十歳にて死去。古心寺の両親の墓の傍らに葬られた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/64/806b2bccecfd922f297389d2b653b24c.jpg)
黒田家墓所
十一代藩主長義は文久二年(1862)、わずか十六歳にて死去。嗣子がなかったため、その死は当面秘匿され、跡を弟の長徳が継いだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/51/2e/07f7236f6192af25364f8f0568cd3b07.jpg)
黒田長義公墓
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/13/e3c268b0c685d8f8b0a51da4172bc2cc.jpg)
黒田長元公墓
黒田長元は、第十代秋月藩主。父は土佐藩の山内豊策。万延元年(1860)家督を六男長義に譲って隠居した。慶応三年(1867)、五十七歳にて死去。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/a0/f401674dc27df22d5f7e31d672fc301a.jpg)
黒田長徳公墓
第十二代藩主長徳は、最後の秋月藩主となった。秋月藩は福岡藩の支藩で、佐幕色が強かったが、大政奉還後は官軍についた。これを不服とする反対派との対立に加え、上層部の勢力争いがからみ藩内は混乱した。明治二年(1869)、版籍奉還により藩知事。明治四年(1871)廃藩置県により東京に移住した。明治二十五年(1892)、四十五歳にて死去。
(戸原継明(夘橘)誕生地)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/19/aa/fce1895c5f62debed35f4bbbf8ecdf93.jpg)
戸原継明(夘橘)誕生地
戸原継明は、天保六年(1835)、秋月に生まれた。父は藩医戸原一伸。夘橘(うきつ)と称した。二十歳のとき熊本の儒者木下業廣(韡村)の門に入り、江戸に出て塩谷世弘(宕陰)に学んだ。同藩士海賀宮門と交際して尊王論を唱え、文久二年(1862)、島津久光の上京時には、これを海賀と平野國臣に報じ、東西呼応しようとしたが、嫌疑を受けて国許で幽閉された。文久三年(1863)六月、赦されて、同年八月脱藩して長州へ赴いて七卿に謁した。そのとき中山忠光の大和挙兵を聞き、これに応じるために平野とともに七卿の一人澤宣嘉を擁して但馬に赴き、生野代官所を襲撃して兵を挙げたが、幕府の反撃により岩須賀山妙見堂にて自刃した。このとき戸原夘橘は二十九歳という若さであった。行動を共にしていたのは長州藩士南八郎こと河上彌市、長野清助、下野猛彦、小田村信一、伊藤三郎、白石廉作、井関英太郎、久富惣介、和田小傳次、西村清太郎。彼らは奇兵隊士で、白石正一郎の弟廉作三十六歳を除くと、いずれも十代から二十代の若年で、戸原を慕っていたという。彼らの介錯を済ませると
「武士の最期を見よ」
と大喝するや、刀を咥えて巌上より飛び降り咽喉を貫いて壮烈な最期を遂げた。墓所は京都霊山。
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