史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

添田

2016年07月18日 | 福岡県
(英彦山)


英彦山神社

 今回の五泊六日の福岡の史跡旅行、最後の訪問地が英彦山神社である。最終日は朝から御許山に昇って十分消耗していたが、最後の体力と気力を振り絞って英彦山の頂上まで往復した。といっても登り始めたのはちょうど参道の中間点辺りであったし、終点は山頂の上宮ではなくて英彦山神社までだったので、上っていたのはたかだか十分くらいのことで、大騒ぎするほどの道ではない。


広瀬淡窓詩碑

 ちょうど英彦山神社の手前に廣瀬淡窓の詩碑が建てられている。淡窓二十九歳の作である。淡窓は病気平癒祈願のため、文化七年(1810)九月、英彦山に登り、その時この詩を作った。

 彦山高き処 望み氤氳(いんうん)
 木末の楼台 晴れて始めて分かる
 日暮天壇 人去り尽くし
 香煙は散じて数峰の雲と作る


岡坊跡

 参道の途中にある岡坊(おかのぼう)跡である。幕末の英彦山では、有力な山伏たちは尊王攘夷派の長州藩を支援し行動したが、佐幕派の小倉藩ではその行動を抑えるために文久三年(1863)から明治維新まで藩兵を派遣して英彦山を制圧した。その非常事態下の山内で政祭を取り仕切った坊として記録されている。


招魂社


官祭招魂社

 幕末の英彦山座主教有の母は、関白一条忠良の息女で、三条公修(三条実美の祖父)の養女であった。さらに長州奇兵隊から英彦山への軍事教練や資金援助の申し出の噂があった。文久三年(1863)の八月十八日の政変で三条実美をはじめとする七卿が長州藩領に落ち延びると、その警備のため英彦山の山伏七人が長州に派遣された。
 このようなことがあって、同年十一月、英彦山座主教有は、小倉藩庁に呼び出され、教有の家族も小倉に連行、軟禁された。教有が英彦山への帰山が許されたのは元治元年(1864)十月のことであった。
 慶應二年(1866)には、長州藩に賛同する山伏十名が小倉に連行され、うち六名が小倉の牢で処刑された。英彦山では現在もこの事件や元治元年(1864)の禁門の変に従軍した山伏を、招魂社を設けて義僧として祀っている。

 五泊六日の旅はこれで終了。九州といえばラーメンしか思い浮かばなかった私は、毎晩豚骨ラーメンを食していたが、さすがに飽きてきて最終日の夕食は、空港でハンバーグ定食にした。純粋に美味かった。


招魂社


維新殉国志士の墓地
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