史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

角田 Ⅱ

2020年03月21日 | 宮城県

(長泉寺つづき)

 

清流院殿聯山祖遠大居士(石川邦光墓)

 

 前回、宮城県南部を訪ねたのは、七年前のことになる。その時は、角田市の長泉寺で日没を迎えたため、長泉寺の墓地を歩くことは叶わなかった。七年越しのリベンジである。七年前には気が付かなかったが、長泉寺の墓地はとてつもなく広く、墓探しは大いに難渋した。まずは墓地内に五か所(古廟・文山様廟・中之廟・齢巌様塔・台山廟)に分かれて所在している、角田領主石川家の墓所を訪ねることにした。

 

 石川邦光は、天保十五年(1844)、角田領主石川義光の四男に生まれた。父の隠居にともない元治元年(1864)家督を相続した。戊辰戦争では一門筆頭として活躍。維新後は移民団を率いて室蘭に入植したが、失敗して支配地を返上することになった。西南戦争では旧家臣団を率いて各地を転戦し、城山における最終戦にも参加している。明治二十二年(1889)、角田町が発足するとその初代町長にも就任した。翌年辞職して再び北海道の開拓に乗り出すが、それに反対していた妻が無断で開拓地を売却してしまったため計画は頓挫。その後、角田に戻って隠居した。大正十二年(1923)、八十歳にて死去。

 

瀬谷家之墓(瀬谷一郎治の墓)

 

 瀬谷一郎治は石川大和邦光家来。明治元年(1868)九月十一日、磐城口にて戦死。四十二歳。傍らの墓誌には「一郎介恭次」と記されている。

 

 長泉寺も昨年の台風19号の豪雨により、境内が浸水し墓地の斜面が崩れる被害があった。今回、境内を歩いた限り、その痕跡を見ることはなかったが、山門の修理工事中であったのは、ひょっとしたら台風被害のためなのかもしれない。七年前、山門前に建っていた戊辰戦死の碑が見当たらなかった。

 

(徳蔵寺)

 墓石に刻まれた記述によると丹野平馬は、法名「至誠院義孝良忠居士」。仙台荒町の晈林寺に葬られた。伊達家の祐筆。慶應四年(1868)八月十一日、戊辰の役、宇田藤崎に於いて戦死。享年二十三。

 「幕末維新全殉難者名鑑」では表記は丙馬。戦死は八月十六日、場所は磐城駒ケ峰とされている。

 

徳蔵寺

 

丹野家之墓(丹野平馬の墓)

 

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