本書では福井藩の成り立ちから書き起こされる。福井藩祖結城秀康は、徳川家康の二男として生まれた。しかし、家康の跡を継いで将軍職を継承したのは、すぐ下の弟である秀忠とその子孫であった。長幼の順からすれば、秀康が後継ぎになっても不思議はなかったが、家康が秀忠を選んだ背景には、秀康が豊臣秀吉のもとに養子に出され、下総の名族結城氏を継いだという事情があった。
結城秀康は慶長十二年(1607)に三十四歳という若さで病死し、長男忠直が跡を継いだ。忠直は大阪夏の陣で奮闘し戦功を挙げたが、茶器を与えられただけで加増はなかった。
しかも、家康の九男、十男、十一男がそれぞれ将軍家を継ぐ資格をもつ御三家を起こしたというのに、越前松平家にその資格は与えられなかった。忠直の幕府に対する不満は募っていった。忠直は幕府の命を受けて隠居させられ、代わって忠直の異母弟である忠昌が越前福井藩主を継ぐことになった。
越前家を巡る微妙な空気は、その後もそのまま続いたが、福井藩の分家である高田藩、越前大野藩、越前勝山藩、松江藩、明石藩、津山藩、糸魚川藩、松江の分家である広瀬藩、母里藩などを合わせると一門の石高は百万石を越えた。しかし親藩大名は幕政に関与することはできず、幕府の役職に就けるのは譜代大名に限られた。幕府からしてみれば、大封を与える代わりに政治的発言を封じ込めようという意図が秘められているのである。越前家を継いだ春嶽にとって幕政参加は、彼一人にとどまらず越前家累代の悲願でもあった。
本書で紹介されているように、春嶽が幕政参加のために選んだパートナーは、やはり政治参加が許されない外様の薩摩藩であった。越前福井藩と薩摩藩は、「薩越同盟」とも呼ぶべき緊密な関係を築いた。両藩は、政治上のパートナーであるだけではなく、経済上のパートナーでもあった。福井藩では生糸などの専売を通じてそれを莫大な出費に充てようとはかったが、その販売先として想定されたのが薩摩であった。
薩摩藩と結んで実現した元治元年(1864)の参預会議や慶應三年(1867)の賢候会議は、春嶽が思い描いた雄藩連合構想に近いものであっただろう。しかし、いずれも慶喜によって雄藩連合構想は骨抜きにされた。安政年間に春嶽や島津斉彬が熱心に将軍後継に推した慶喜が、薩摩、越前両藩にとって最大の政敵となったのである。
賢候会議の頓挫以降、薩摩藩は討幕に傾倒していく。対幕強硬派の西郷隆盛、大久保利通の主導のもと、討幕を見据える形で長州や土佐と合従連衡策を進めたが、徳川家第一の親藩を自認する福井藩は薩摩と道をたがえることになった。親藩福井藩の限界であった。
慶應三年(1867)十二月の王政復古のクーデターは、福井藩にとって驚天動地の出来事であった。岩倉具視や薩摩藩の思惑は慶喜を新政府から排除するものであった。春嶽はこれに反発したが、薩摩藩としては薩摩中心の新政府と見られるのを避けるためにも、親藩福井藩、御三家筆頭の尾張藩は新政府側に取り込んでおきたかった。春嶽や尾張の慶勝の尽力で慶喜の新政府入りが内定した。しかし、江戸における薩摩藩邸焼討、それに続く鳥羽伏見の戦いによって、春嶽らの巻き返しは水泡に帰した。
春嶽は明治新政府の議定に迎えられる。しかし、親藩大名出身というだけで、常に政府内で疑念が向けられ、意見はなかなか通らなかった。春嶽は何度も辞職を申し出ているが、都度慰留された。春嶽は、西国の外様大名が主導権を握る新政府と、野党的存在である親藩・譜代大名とを繋ぐ、貴重な存在であり、挙国一致には欠かせない存在であった。春嶽が公職を離れたのは、ようやく明治三年(1870)七月のことである。
幕末から明治にかけて福井藩と春嶽の果たした役割は、「徳川一門の大名でありながら、公論をキーワードに徳川家独裁の政治体制ではなく、挙国一致の国家造りを牽引したことに尽きる」という。その政治理念から五箇条の御誓文、のちの議会制度につながる公議所も生まれたとする。
常々、「歴史は公正中立に見るべし」と自戒している私であるが、青春時代を送った福井のことになると、冷静ではいられない(先日もコンビニの店頭で北陸人のソウルフード「8番ラーメン」のカップ麺を二個発見し、二個とも買ってしまった)。慶喜に振りまわされ、あまり存在感を発揮できなかった。どちらかというと「残念な藩」という印象は拭えないが、本書によって福井藩と春嶽の歴史的役割を確認することができたのは収穫であった。
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