(西郷隆盛宿営の地碑)
西郷隆盛宿営之地碑
西郷南洲翁仮宿之地碑
熊本方面における戦闘に敗れた西郷軍は、次第に後退し、肥後から日向へと追いやられた。延岡和田越での決戦に敗れた西郷は、手兵約三百を率いて可愛岳を突破、一路故山の鹿児島を目指して敗走を続けた。
明治十年(1877)八月二十七日、九州山地を南下した西郷とその一隊は、下槻木を経て、本市堂屋敷に達した。そこから川沿いに下って、その日の夕刻、夏木中藪に至り、この地にあった川添源左衛門方とその周辺一帯に宿営した。
家人の後日談によると、一丁の駕籠が着いて、中から出てきた西郷は、直ぐに奥の六畳間に入った。それから翌朝出発するまで、誰一人その姿を見た者はなかった。翌日、西郷の一隊は、九瀬から小妻木を経て小林に向かったとされる。
(大年神社)
大年神社
須木中学校に隣接する大年神社境内に戦死追吊碑が建てられている。旧須木村域の戦死者を弔うために建てられたと言われているが、建立年月日も戦没者名も建立者名も記されていない。逆賊とされた西郷軍に加担した人たちを慰霊するものであったため、世間体をはばかったものと言われている。碑文も風化して損耗も激しかったため、平成元年(1989)、改修が施され、当時に新しく「西南戦争従軍者」の碑も併設された。須木地区から西郷軍に参加した人数は二十四名と記録されているが、ここには二十三名の名前が記されている。残る一名の「彦左衛門」は手掛かりがなく、不明な点が多いため、従軍者の碑には含まれていないという。
戦死追吊碑
西南戦争従軍者碑
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