(法泉寺)
「幕末維新全殉難者名鑑」には、法泉寺の殉難十士の一人、松岡伝十郎の墓があるとされているが、墓地はかなり整理されてしまったようである。
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法泉寺
(水天宮)
水天宮は二代有馬忠頼が慶安三年(1650)鷺野原から移したものである。祭神は天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)と安徳天皇、建礼門院、二位の尼の四柱。九代頼徳の時、文政元年(1818)、江戸に分祀したのが日本橋蠣殻町の水天宮である。幕末、当宮の神官であった真木和泉守保臣は、尊攘活動の志士として活躍した。境内に出陣姿の銅像と真木神社がある。
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水天宮
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真木神社
真木神社は、真木和泉を祭神とする神社である。ほかに国難に殉じた一門および門下生十二名(渕上郁太郎、真木菊四郎、半田門吉ら)、それに真木和泉とともに天王山で戦死した久留米藩、肥後藩や土佐藩の十六烈士(宮部春蔵、松山深蔵ら)も相殿に祀られている。
真木和泉像
真木和泉は、水天宮の神官の家に生まれ、幼くして父を失い、よく母につかえ、学問に励み、武道、音楽にも通じ、藩校明善堂から表彰を受けた。藩政改革を志して果たせず、一時水田(現・筑後市)に蟄居したが、脱出して国事に奔走した。諸国の士から「今楠公」と仰がれ、その中心的指導者となった。蘭方医工藤謙同と親しく、海外の事情にも通じ、久留米の医学刷新にも尽くし、藩医学館の生みの親とも言われる。早くから薩長の連携を唱えたが時至らず、禁門の変に敗れて同士十六人とともに天王山で自刃した。辞世
大山の峰の岩根に埋(うめ)にけり
我が年月の大和魂
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山梔窩
真木神社の前に、真木和泉が謹慎生活を送った山梔窩が復元再建されている。実物は筑後市にある。
工藤謙同先生碑
工藤謙同は、久留米で初めて蘭方医学を開いた医師である。豊後の国杵築の医家に生まれ、蘭医シーボルトや宇田川榛斎に医学を学び、切に請われて久留米で医業を開いた。謙同は、淡白、寡欲、磊落で、しかも信ずることに篤く、漢方医の圧迫に屈せず、また国老の藩医への推薦も固く辞して受けなかった。特に真木和泉と親交を結び、ともに国事を論じ、また海外の情勢、西洋学術の進歩について真木和泉に新知識を授けた。真木和泉の藩医学の刷新、医学館開設の上申に結び付き、ひいては国防開国論を唱えた佐久間象山を朝廷に推挙することにも繋がった。謙同は真木和泉に先立つこと三年、文久元年(1861)、この地で没したが、その男児三名はいずれも医業を継いで名を成した。
(妙泉寺)
松崎誠蔵源發之墓
妙泉寺に殉難十士の一人松崎誠蔵の墓がある。松崎誠蔵は今井栄の協力者。慶応二年(1866)秋、上海に密航した。「雄飛丸」「千歳丸」初代艦長。徳雲寺で切腹したとき、四十歳であった。
実は久留米市内の史跡を一巡し終わったところで、妙泉寺をスキップしていたことに気づき、中央町に引き返すことになった。既に日没が過ぎ、薄暗い中で撮影したのが、右の写真である。なお、本堂は修復工事中で撮影できず。
(荘島交差点)
樺島石梁先生宅跡
荘島交差点の南東の角、「とんかつの浜勝」の植え込みの中に樺島石梁先生宅跡の石碑が建つ。
樺島石梁は、久留米藩校明善堂の創設者の一人。号の石梁は、荘島小路石橋丁(現・久留米市荘島町)に生まれたことに因んだもの。
(本泰寺)
久留米市の寺町には現在十七ヵ寺が集中している。かつては二十六の寺院があったという。本泰寺の朱色の唐門を入ると、左手に不破美作の墓がある。墓の前の紫色の花はシラン(紫蘭)というらしい。
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本泰寺
不破美作(諱は正寛または眞寛)は、安政二年(1855)奏者番となり、のち藩校明善堂の責任者として学制を改革した。文久三年(1863)、参政となり、執政の有馬監物と藩政の実権を握った。初め佐幕攘夷を主張していたが、のちには監物の佐幕開国の支持者となった。大政奉還後、参政の職にあったが、なお幕府援助の意があるとして、同藩尊王派に暗殺された。四十七歳。
不破眞寛(美作)墓
悲劇的な最期を遂げた不破美作であったが、若い頃から世界情勢や西洋の文物にも通じ、容貌も才智にも優れたという。文久三年(1863)藩参政に就いてからは開成方、開物方、成産方の新設、洋船の購入など富国強兵政策を積極的に進めた。相当力のある為政者だったのだろうと思う。
(真教寺)
真教寺には、藩校明善堂創健者樺島石梁、多くの門人を育てた剣術家加藤田平八郎、高山彦九郎と交遊のあった森嘉善らの墓がある。
真教寺
樺島石梁墓
加藤田家墓
加藤田平八郎は文化五年(1808)、久留米藩士加藤十助の長男として荘島小路に生まれた。文政元年(1818)、神陰流師範で、久留米藩指南役の加藤田新八に入門し、文化六年(1823)、その養子となった。文政十二年(1829)、門下の奥村七助、太田友八を伴って武者修行に出た。豊前・豊後から中国、近畿、四国まで渡って計十九ヵ国を巡って帰国した。弘化三年(1846)、養父が没すると、加藤田神陰流十代の師範役となり、その晩年までに門人二千八百人余りを指導したという。明治八年(1875)、一月十五日に没。六十八歳。真教寺の本堂の裏手の墓地に加藤田家の墓域があるが、いずれも大正年間の建之で、平八郎がどこに葬られているのか判然としない。
森嘉善之墓
「幕末維新全殉難者名鑑」には、法泉寺の殉難十士の一人、松岡伝十郎の墓があるとされているが、墓地はかなり整理されてしまったようである。
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法泉寺
(水天宮)
水天宮は二代有馬忠頼が慶安三年(1650)鷺野原から移したものである。祭神は天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)と安徳天皇、建礼門院、二位の尼の四柱。九代頼徳の時、文政元年(1818)、江戸に分祀したのが日本橋蠣殻町の水天宮である。幕末、当宮の神官であった真木和泉守保臣は、尊攘活動の志士として活躍した。境内に出陣姿の銅像と真木神社がある。
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水天宮
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真木神社
真木神社は、真木和泉を祭神とする神社である。ほかに国難に殉じた一門および門下生十二名(渕上郁太郎、真木菊四郎、半田門吉ら)、それに真木和泉とともに天王山で戦死した久留米藩、肥後藩や土佐藩の十六烈士(宮部春蔵、松山深蔵ら)も相殿に祀られている。
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真木和泉像
真木和泉は、水天宮の神官の家に生まれ、幼くして父を失い、よく母につかえ、学問に励み、武道、音楽にも通じ、藩校明善堂から表彰を受けた。藩政改革を志して果たせず、一時水田(現・筑後市)に蟄居したが、脱出して国事に奔走した。諸国の士から「今楠公」と仰がれ、その中心的指導者となった。蘭方医工藤謙同と親しく、海外の事情にも通じ、久留米の医学刷新にも尽くし、藩医学館の生みの親とも言われる。早くから薩長の連携を唱えたが時至らず、禁門の変に敗れて同士十六人とともに天王山で自刃した。辞世
大山の峰の岩根に埋(うめ)にけり
我が年月の大和魂
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山梔窩
真木神社の前に、真木和泉が謹慎生活を送った山梔窩が復元再建されている。実物は筑後市にある。
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工藤謙同先生碑
工藤謙同は、久留米で初めて蘭方医学を開いた医師である。豊後の国杵築の医家に生まれ、蘭医シーボルトや宇田川榛斎に医学を学び、切に請われて久留米で医業を開いた。謙同は、淡白、寡欲、磊落で、しかも信ずることに篤く、漢方医の圧迫に屈せず、また国老の藩医への推薦も固く辞して受けなかった。特に真木和泉と親交を結び、ともに国事を論じ、また海外の情勢、西洋学術の進歩について真木和泉に新知識を授けた。真木和泉の藩医学の刷新、医学館開設の上申に結び付き、ひいては国防開国論を唱えた佐久間象山を朝廷に推挙することにも繋がった。謙同は真木和泉に先立つこと三年、文久元年(1861)、この地で没したが、その男児三名はいずれも医業を継いで名を成した。
(妙泉寺)
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松崎誠蔵源發之墓
妙泉寺に殉難十士の一人松崎誠蔵の墓がある。松崎誠蔵は今井栄の協力者。慶応二年(1866)秋、上海に密航した。「雄飛丸」「千歳丸」初代艦長。徳雲寺で切腹したとき、四十歳であった。
実は久留米市内の史跡を一巡し終わったところで、妙泉寺をスキップしていたことに気づき、中央町に引き返すことになった。既に日没が過ぎ、薄暗い中で撮影したのが、右の写真である。なお、本堂は修復工事中で撮影できず。
(荘島交差点)
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樺島石梁先生宅跡
荘島交差点の南東の角、「とんかつの浜勝」の植え込みの中に樺島石梁先生宅跡の石碑が建つ。
樺島石梁は、久留米藩校明善堂の創設者の一人。号の石梁は、荘島小路石橋丁(現・久留米市荘島町)に生まれたことに因んだもの。
(本泰寺)
久留米市の寺町には現在十七ヵ寺が集中している。かつては二十六の寺院があったという。本泰寺の朱色の唐門を入ると、左手に不破美作の墓がある。墓の前の紫色の花はシラン(紫蘭)というらしい。
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本泰寺
不破美作(諱は正寛または眞寛)は、安政二年(1855)奏者番となり、のち藩校明善堂の責任者として学制を改革した。文久三年(1863)、参政となり、執政の有馬監物と藩政の実権を握った。初め佐幕攘夷を主張していたが、のちには監物の佐幕開国の支持者となった。大政奉還後、参政の職にあったが、なお幕府援助の意があるとして、同藩尊王派に暗殺された。四十七歳。
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不破眞寛(美作)墓
悲劇的な最期を遂げた不破美作であったが、若い頃から世界情勢や西洋の文物にも通じ、容貌も才智にも優れたという。文久三年(1863)藩参政に就いてからは開成方、開物方、成産方の新設、洋船の購入など富国強兵政策を積極的に進めた。相当力のある為政者だったのだろうと思う。
(真教寺)
真教寺には、藩校明善堂創健者樺島石梁、多くの門人を育てた剣術家加藤田平八郎、高山彦九郎と交遊のあった森嘉善らの墓がある。
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真教寺
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樺島石梁墓
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加藤田家墓
加藤田平八郎は文化五年(1808)、久留米藩士加藤十助の長男として荘島小路に生まれた。文政元年(1818)、神陰流師範で、久留米藩指南役の加藤田新八に入門し、文化六年(1823)、その養子となった。文政十二年(1829)、門下の奥村七助、太田友八を伴って武者修行に出た。豊前・豊後から中国、近畿、四国まで渡って計十九ヵ国を巡って帰国した。弘化三年(1846)、養父が没すると、加藤田神陰流十代の師範役となり、その晩年までに門人二千八百人余りを指導したという。明治八年(1875)、一月十五日に没。六十八歳。真教寺の本堂の裏手の墓地に加藤田家の墓域があるが、いずれも大正年間の建之で、平八郎がどこに葬られているのか判然としない。
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森嘉善之墓
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