(西方寺)
西方寺には今井栄の墓がある。
今井栄は久留米藩士江戸詰御用席の今井七郎右衛門の子として江戸で生まれた。和漢の学に励み、英語を古屋佐久左衛門に学んだ。幼少より小姓として有馬頼永(よりとお)に近侍した。頼永が十代藩主に就くとその改革を補佐し、天保学連の指導的立場を担った。しかし、頼永が病気となると、穏健派である今井は、急進派の真木和泉らと対立する。頼永没後、十一代頼咸にも重用され、江戸留守居役、御納戸役に進み、江戸滞在中には勝海舟ら幕臣や諸藩の人々と広く交際した。文久三年(1863)、久留米に帰国すると、家老有馬河内(監物)や参政不破美作を説いて、藩論を攘夷から開国に転換させ、富国強兵のために開成方、開物方、成産方の三局を設置した。また、田中久重を久留米藩で東洋するため推挙した。慶応二年(1866)には洋船購入の藩命を受け、長崎に向かったが、交渉が難航したため、久重とともに密航して上海に渡り、そこで汽船を購入した。慶応四年(1868)、不破美作が暗殺されると、水野正名を首班とする尊攘派政権が成立する。今井栄は公武合体派として追放され、明治二年(1869)一月二十五日、松崎誠蔵らとともに切腹して果てた。のちに殉難十志士と呼ばれる。享年四十八。栄の死を聞いた薩摩藩の黒田清隆は「惜しい人物を殺した」と嘆いたという。
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西方寺
今井義敬(栄)墓
(妙正寺)
妙正寺
久徳與十郎重之墓
久徳(きゅうとく)与十郎は、殉難十士の一人。久徳第三郎の二男に生まれ、元治元年(1864)には公武周旋役として上京。同年七月、隊長として長州兵と戦い、功があった。慶応四年(1868)四月、水野正名を首班とする政権の樹立により入獄し、翌明治二年(1869)一月二十五日、徳雲寺にて切腹。五十歳。
(徳雲寺)
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徳雲寺
徳雲寺は、殉難十士のうち、吉村を除く九名(石野・梯・喜多村・久徳・本庄・松岡・松崎・今井)が切腹した寺院である。境内に殉難十志士終焉地碑が建立されている。
殉難十志士終焉地碑
井上傳子之墓
井上伝は、天明八年(1778)、現在の久留米市通外町の米穀商「橋口屋」こと平山源蔵の娘として生まれ、幼少の頃から布を織ることに優れ、十三歳の頃、平常着の斑紋(まだらもん)となっていることから、絣の図柄を考え得たものである。その後、二十一歳の時、市内原古賀町の井上次八に嫁ぎ、二男一女をもうけたが、二十八歳の時夫を失い、三人の子供をかかえながらこの道に励み、四十歳の頃には四百人の弟子がいて、郷土の機業の振興に務めた。明治二年(1869)四月、八十二歳で世を去った。久留米絣は国の重要無形文化財に指定されている。
久留米絣始祖 井上伝女
(遍照院)
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遍照院
遍照院には高山彦九郎の墓など見どころが多い。寺町の中心にあり、やや広い駐車場もあるので、久留米市内の史跡巡りはここから始めるのが良いだろう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/24/165f1c91813bf07899c192a7edecc322.jpg)
高山彦九郎墓
まず高山彦九郎の墓である。高山彦九郎は、寛政元年(1789)、江戸赤羽の久留米藩邸で樺島石梁と面会し、そこで同藩士数名とともに酒を酌み交わしたことがあった。そういう縁もあって、九州地方を訪れた彦九郎は、約一年半の間に、熊本から鹿児島、宮崎、大分など各地を歴訪し、その最後に久留米に至った。久留米では儒医森嘉善宅に逗留した。森嘉善の証言によれば「少し目を離した隙にすでに切腹していた」という。当初、久留米藩は埋葬を許さなかったため、嘉善は自宅の庭に仮葬をしたが、その後、官許を得て編照院に改葬した。
平野国臣寄進の灯篭
高山彦九郎の墓前には、平野國臣が寄進した石燈籠がある。
耿介四士之(大楽源太郎主従)墓
耿介(こうかい)四士之墓は、久留米で暗殺された大楽源太郎主従を葬った墓である。
明治三年(1870)、久留米藩では封建・攘夷論が藩政の基調となっており、新政府に非協力的な態度をとっていた。この情勢の中で、山口藩兵解隊反対の騒動が起こり、それが鎮圧されると騒乱の指導者であった大楽源太郎らは旧知の古松簡二らを頼り、久留米藩に潜入した。これが久留米藩を中心とした全国的な反政府事件の始まりである。藩の尊攘派は、当初大楽らをかばったが、新政府の厳しい追及によって、罪が藩主頼咸に及ぶことを恐れ、明治四年(1871)三月、大楽源太郎を小森野村高野浜で、弟山縣源吾、門弟小野清太郎を豆津浜で誘殺し、従僕中村要助を津福木見神社域で自殺させた。この四名を葬ったのが耿介四士之墓である。「耿介」とは堅く志を守ることをいう。
耿介四士之墓の横には大楽らの殺害に関与した久留米藩士、川島澄之助、松村雄之進、山瀬三郎の三名の墓が並んでいる。
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西道俊墓
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大楽源太郎を殺害した三士の墓
辛未(しんび)遭難志士之墓は、明治四年(1871)事件で遭難した久留米藩関係者の墓碑である。明治二十八年(1905)建立。大楽源太郎事件にからんで小河真文は斬罪、水野正名は終身禁獄、以下五十余名の処分者を出した。この事件は全国的な反政府事件であったため、二府三十九県にわたり、二百六十名以上に処分が下された。ここでも久留米藩の多くの有為な人材が失われた。
辛未遭難志士之墓
辛未遭難志士之墓の横に「ひょうたん墓」と呼ばれる墓がある。西道俊(みちとし)の墓である。西道俊は長崎の人で、京都で高山彦九郎と相知り、意気投合した。彦九郎が久留米で自刃したことを聞いて、自らも彦九郎の墓の前で割腹自殺をした。享和二年(1802)五月二日のことであった(偶然ながら、私がここを訪ねたのも五月二日であった)。
贈正四位高山正之先生
遍照院には高山彦九郎の胸像もある。
西方寺には今井栄の墓がある。
今井栄は久留米藩士江戸詰御用席の今井七郎右衛門の子として江戸で生まれた。和漢の学に励み、英語を古屋佐久左衛門に学んだ。幼少より小姓として有馬頼永(よりとお)に近侍した。頼永が十代藩主に就くとその改革を補佐し、天保学連の指導的立場を担った。しかし、頼永が病気となると、穏健派である今井は、急進派の真木和泉らと対立する。頼永没後、十一代頼咸にも重用され、江戸留守居役、御納戸役に進み、江戸滞在中には勝海舟ら幕臣や諸藩の人々と広く交際した。文久三年(1863)、久留米に帰国すると、家老有馬河内(監物)や参政不破美作を説いて、藩論を攘夷から開国に転換させ、富国強兵のために開成方、開物方、成産方の三局を設置した。また、田中久重を久留米藩で東洋するため推挙した。慶応二年(1866)には洋船購入の藩命を受け、長崎に向かったが、交渉が難航したため、久重とともに密航して上海に渡り、そこで汽船を購入した。慶応四年(1868)、不破美作が暗殺されると、水野正名を首班とする尊攘派政権が成立する。今井栄は公武合体派として追放され、明治二年(1869)一月二十五日、松崎誠蔵らとともに切腹して果てた。のちに殉難十志士と呼ばれる。享年四十八。栄の死を聞いた薩摩藩の黒田清隆は「惜しい人物を殺した」と嘆いたという。
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西方寺
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今井義敬(栄)墓
(妙正寺)
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妙正寺
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久徳與十郎重之墓
久徳(きゅうとく)与十郎は、殉難十士の一人。久徳第三郎の二男に生まれ、元治元年(1864)には公武周旋役として上京。同年七月、隊長として長州兵と戦い、功があった。慶応四年(1868)四月、水野正名を首班とする政権の樹立により入獄し、翌明治二年(1869)一月二十五日、徳雲寺にて切腹。五十歳。
(徳雲寺)
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徳雲寺
徳雲寺は、殉難十士のうち、吉村を除く九名(石野・梯・喜多村・久徳・本庄・松岡・松崎・今井)が切腹した寺院である。境内に殉難十志士終焉地碑が建立されている。
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殉難十志士終焉地碑
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井上傳子之墓
井上伝は、天明八年(1778)、現在の久留米市通外町の米穀商「橋口屋」こと平山源蔵の娘として生まれ、幼少の頃から布を織ることに優れ、十三歳の頃、平常着の斑紋(まだらもん)となっていることから、絣の図柄を考え得たものである。その後、二十一歳の時、市内原古賀町の井上次八に嫁ぎ、二男一女をもうけたが、二十八歳の時夫を失い、三人の子供をかかえながらこの道に励み、四十歳の頃には四百人の弟子がいて、郷土の機業の振興に務めた。明治二年(1869)四月、八十二歳で世を去った。久留米絣は国の重要無形文化財に指定されている。
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久留米絣始祖 井上伝女
(遍照院)
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遍照院
遍照院には高山彦九郎の墓など見どころが多い。寺町の中心にあり、やや広い駐車場もあるので、久留米市内の史跡巡りはここから始めるのが良いだろう。
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高山彦九郎墓
まず高山彦九郎の墓である。高山彦九郎は、寛政元年(1789)、江戸赤羽の久留米藩邸で樺島石梁と面会し、そこで同藩士数名とともに酒を酌み交わしたことがあった。そういう縁もあって、九州地方を訪れた彦九郎は、約一年半の間に、熊本から鹿児島、宮崎、大分など各地を歴訪し、その最後に久留米に至った。久留米では儒医森嘉善宅に逗留した。森嘉善の証言によれば「少し目を離した隙にすでに切腹していた」という。当初、久留米藩は埋葬を許さなかったため、嘉善は自宅の庭に仮葬をしたが、その後、官許を得て編照院に改葬した。
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平野国臣寄進の灯篭
高山彦九郎の墓前には、平野國臣が寄進した石燈籠がある。
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耿介四士之(大楽源太郎主従)墓
耿介(こうかい)四士之墓は、久留米で暗殺された大楽源太郎主従を葬った墓である。
明治三年(1870)、久留米藩では封建・攘夷論が藩政の基調となっており、新政府に非協力的な態度をとっていた。この情勢の中で、山口藩兵解隊反対の騒動が起こり、それが鎮圧されると騒乱の指導者であった大楽源太郎らは旧知の古松簡二らを頼り、久留米藩に潜入した。これが久留米藩を中心とした全国的な反政府事件の始まりである。藩の尊攘派は、当初大楽らをかばったが、新政府の厳しい追及によって、罪が藩主頼咸に及ぶことを恐れ、明治四年(1871)三月、大楽源太郎を小森野村高野浜で、弟山縣源吾、門弟小野清太郎を豆津浜で誘殺し、従僕中村要助を津福木見神社域で自殺させた。この四名を葬ったのが耿介四士之墓である。「耿介」とは堅く志を守ることをいう。
耿介四士之墓の横には大楽らの殺害に関与した久留米藩士、川島澄之助、松村雄之進、山瀬三郎の三名の墓が並んでいる。
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西道俊墓
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/03/c1153d74c92b70aef8fc9c9dde55bc6d.jpg)
大楽源太郎を殺害した三士の墓
辛未(しんび)遭難志士之墓は、明治四年(1871)事件で遭難した久留米藩関係者の墓碑である。明治二十八年(1905)建立。大楽源太郎事件にからんで小河真文は斬罪、水野正名は終身禁獄、以下五十余名の処分者を出した。この事件は全国的な反政府事件であったため、二府三十九県にわたり、二百六十名以上に処分が下された。ここでも久留米藩の多くの有為な人材が失われた。
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辛未遭難志士之墓
辛未遭難志士之墓の横に「ひょうたん墓」と呼ばれる墓がある。西道俊(みちとし)の墓である。西道俊は長崎の人で、京都で高山彦九郎と相知り、意気投合した。彦九郎が久留米で自刃したことを聞いて、自らも彦九郎の墓の前で割腹自殺をした。享和二年(1802)五月二日のことであった(偶然ながら、私がここを訪ねたのも五月二日であった)。
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贈正四位高山正之先生
遍照院には高山彦九郎の胸像もある。
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