史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

寒風沢島

2021年01月02日 | 宮城県

 前回、マリンゲート塩釜まで行ったものの、目の前で浦戸諸島行きの船が出てしまい、寒風沢島に渡ることができなかった。今回はそのリベンジである。

 午前中は岩切駅近くの関係会社にて仕事であった。何とか午前中で仕事を片付けて、昼前の電車で移動する手はずであった。

 首尾よく予定より早く仕事は終わり、このまま岩切駅に向かうことになった。ところが、同行していたI君が上司に気を使って

「近くにワールドカップで使われたスタジアムがありますから、見て行きましょう。」

と言い出し、言われるがまま迂回して利府町の総合運動公園に立ち寄ることになった。こっちは時計の針が気になって仕方なかったが、素知らぬ顔をしながら、スタジアム見学に付き合った。やっとの思いで岩切駅に着いた瞬間、上司とI君に対し

「では!」

と言い残して、そのままダッシュしてホームに駆け込んだ。東北本線小牛田行きで塩釜駅まで行って、そこから十数分歩いてJR仙石線西塩釜に移動し、待ち時間数分で仙石線に飛び乗って一駅。本塩釜駅で下車して、あとは歩いてマリンゲート塩釜に向かうのみである。出港時間の三十分前に滑り込むことができた。曲芸的移動であった。

 

塩釜と浦戸諸島を結ぶ

しおじ号

 

 塩釜港から寒風沢島まで乗船時間は、四十分強である。迂闊にも酔い止め薬を買うのを忘れていたため、四十分間、ひたすら目を瞑って時間が過ぎるのを待つしかなかった。幸いにして船酔いに襲われることなく、寒風沢島に上陸を果たすことができた。

 文字どおり、島には寒くて強い風が吹きつけていた。これがこの島の名前の由来なのだろうか。

 

(造艦之碑)

 最初の訪問地は、港から五分ほど海岸沿いに東に行った地点に立つ造艦の碑である。この碑は、この地で仙台藩の命により三浦乾也(けんや)が東北で初めて西洋型の軍艦「開成丸」を建造したことを記念して、その門人により建立されたものである。「開成丸」の建造に当たり、藩領各地から良材を収集し、安政三年(1856)起工、翌年秋に完成を見た。進水式には藩公慶邦や各藩の重役が多数参列した。「開成丸」は、全長十一丈(約三十三メートル)、幅二丈五尺(約七メートル半)、高さ(帆柱)十丈五尺(約三十一メートル半)という堂々たるものであった。

 

造艦之碑

 

(日和山展望台)

 

しばられ地蔵

 

 造艦之碑の少し南側にハイキング・コースの入り口がある。整備された階段を上ると、右に行くと「日和山展望台20m」、左に行くと「砲台場跡500m」という分岐点に出会う。日和山展望台は、すぐ目の前である。

 展望台というには周囲を樹木で囲われていて、必ずしも視界は良好ではない。ここには、逆風祈願のために縄でしばられている「しばられ地蔵」や十二支方角石などを見て、直ぐに砲台場跡へ向かう。

 

十二支方角石

 

(砲台場跡)

 日和山展望台から竹林に被われたハイキング・コースを五百メートル南下すると、海に突き出た岬に砲台場跡がある。この日、ハイキング・コースを歩く人影はなく、強風であおられて竹が当たるカチカチという音しか聞こえない。出会ったのは猫一匹であった。

 この砲台は、慶応三年(1867)、仙台藩が寒風沢、石浜水道が俯瞰できるこの地に築造したものである。加農(キャノン)砲三門を据え、弾薬庫、見張所を備えていた。沖砲台として、船入島には鉄製の大巨砲二門を置き、さらに石浜崎黒森に一門を据えた。

 藩より大砲方士卒五十人余りが、近くの寺院松林庵(松林寺のことか)に駐屯して警備にあたった。

 

砲台場跡

 

砲台場跡から

野々島陰田(かげた)島方面を臨む

 

(前浜)

 

前浜海水浴場

 

 砲台場跡から前浜海水浴場を見下ろすことができる。夏場は海水浴客で賑わうらしいが、オフシーズンは静かでのどかな空気が流れる。前浜の目の前に船入島が横たわっている。

 

(船入島)

 慶応四年(1867)八月十九日、榎本武揚率いる旧幕府艦隊は、開陽、回天、蟠竜、長鯨、三嘉保、咸臨、神速の七隻に、旧幕兵二千五百余を乗せて北に向かった。途中、銚子沖で大風に遭い、艦隊は離散。三嘉保は座礁沈没、咸臨丸は大破して駿河湾に流され九月十八日、官軍に捕獲された。残る艦隊は仙台藩領松島湾にたどり着き、ここで可能な限りの修理に取り掛かった。仙台藩は艦隊が到着すると各種の便宜を計ったとされる。榎本艦隊が停泊していたのが、松島湾内の東名浜と寒風沢であった。

 榎本艦隊が修理に手間取っている間に、九月に入ると奥羽の形勢は列藩同盟側にとって悪化の一途をたどり、九月四日には米沢藩、同月十五日には仙台藩が相次いで降伏した。官軍が仙台に入城した十月九日、牡鹿半島基部の折ノ浜に移った。これを追って官軍も討征のため十月十日、薩摩および津藩兵を石巻に送ったが、既に脱走軍は全艦出港した後であった。

 

前浜から

船入島・鷹島・沖鷹島

 

 右の一番大きな島が船入島である。

 船入島には榎本武揚の埋蔵金伝説が伝わっている。しかし、蝦夷地開拓を志す榎本武揚にしてみれば、莫大な資金が必要であり、一銭たりとも置いていく余裕はなかったはずである。

 

(松林寺)

 砲台にて警備についた仙台藩士が駐屯した松林寺である。

 

松林寺

 

化粧地蔵

 

 化粧地蔵は、作者、年代とも不詳。この地蔵の顔に紅、白粉を塗って祈願すると子宝に恵まれるといわれており、今日なお化粧が絶えない。

 

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