史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

仙台 Ⅹ

2021年01月02日 | 宮城県

(桜岡神社)

 

桜岡神社

 

 地下鉄東西線の大町西公園で下車して地上に出ると、桜ケ岡公園という広い公園に出る。その中心に位置しているのが、桜岡神社である。

 西公園の青葉通りに面した目立たない場所に明治天皇御駐輦碑が建てられている。

 

明治天皇御駐輦所趾

 

 明治九年(1876)、仙台で開かれた宮城博覧会に明治天皇が臨幸されたことを記念したものである。

 

(長称寺)

 仙台二日目は、土曜日ということもあって竹さん夫妻が仙台市内、大郷、大崎、美里、栗原、加美の史跡(主に戊辰殉難者の墓)を案内していただけることになった。仙台市近郊に在住されて、日頃から周辺の史跡を丹念に調査している竹さん以上のガイド役はいないだろう。最初に訪ねたのが、長称寺である。仙台市でも海に近い若林区二木に所在している。

 

長称寺

 

佐々木家之墓(佐々木彦市の墓)

 

 佐々木彦市(彦作とも)は、登米伊達筑前家来。慶應四年(1868)九月十日(七月八日とも)、磐城旗巻にて戦死。四十一歳。法名碑には「釋明誓」という法名が、両親や先妻後妻とともに刻まれている。

 

(安養寺)

 

安養寺

 

 下愛子字館の安養寺は、もともと現・宮城野区安養寺地区にあったが、十七世紀に現在地に移転したという。

 墓地には、戊辰戦争で戦死した庄子傳三郎の墓がある。簡単に見つかるかと思ったが、墓地に入ってみると「庄子家」の墓が無数にあり、しかも傳三郎は澤口家の墓に合葬されているため、実はなかなか見つけにくいのである。これを探し当てた竹さんの執念には恐れ入る。

 

澤口家之墓(庄子傳三郎の墓)

 

 庄子傳三郎は、慶応四年(1868)七月四日、志茂又左衛門を正使とする秋田藩に派遣された使者一行の一人。藩論定まらない秋田藩であったが、薩摩の大山綱良に使嗾された壮士によって旅宿を襲われ一行十名が惨殺された。これで秋田藩は奥羽列藩同盟軍と敵対することになった。墓誌によれば、庄子傳三郎の法名は「忠達清信士」とある。「幕末維新全殉難者名鑑」には記載がない。

 

(柳澤寺)

 柳澤寺は、広い市域を誇る仙台市でも北郊の泉区上谷刈字館にある。イノシシやクマが出そうな場所である。

 この寺は、正保元年(1644)、林泉寺の五世悦叟良観禅師によって創建されたものである。

 

柳澤寺

 

大立目家之墓(大立目武治の墓)

 

 大立目武治は、百石。八番大番士。中島兵衛之介隊。慶應四年(1868)五月二十六日、白河にて戦死。

 

(葛岡霊園)

 葛岡霊園は、もともと市内にあった三十五の寺院の墓地を集めたものである。自力で目当ての墓に行き着くのはほぼ不可能であろう。残り時間三十分を切った中で、竹さんの案内で立て続けに真田喜平太、戊辰殉難者である下田勇治、濱田源五郎、富田哲之助の四人の墓を訪ねることができた。

 

眞田家之墓(真田喜平次の墓)

 

 真田喜平太は文政七年(1824)、知行三百六十石の中士の家に生まれた。西洋砲術を下曽根金三郎、高島秋帆に学び、安政三年(1856)からの三年間、藩の講武場指南役として、門人一万三五百人に教授し、また革新的な兵制改革を建言した。近習目付であった慶應三年(1867)、喜平太は藩主に「郡県政体にあらざれば真の王政復古にあらず」と論じ、土地人民の奉還を進言した。しかし藩主はこの建言を採用せず、雄藩への機会を逸してしまった。奥羽鎮撫使下向後は、勤王派の参政として討会論の急先鋒となり、関宿会談では会津藩家老梶原平馬を説得して降伏三条件を受諾させた。また、長州藩世良修蔵の暗殺を必死に止めたが果たせず、辞職して籠居した。仙台藩は白河口で連戦連敗、藩敗滅の時となると喜平太はやむなく節を屈し、仙台藩参謀として出兵した。仙台真田家は幕府を憚って結雁金の家紋を用いていたが、慶応四年(1868)七月十四日の白河口攻防戦出兵時、真田家ゆかりの「六連銭」の大旗を掲げ、洋式軍装の一隊を率いて決死の戦いを挑んだ。明治二十年(1887)、没。享年六十四。この墓は葛岡霊園内成覚寺墓地内にある。

 

 竹さん夫妻によれば、真田喜平太の墓は石巻市の西光寺に再建されているらしい。こちらも何時か行ってみたい。

 

下田家之墓(下田勇治の墓)

 

 下田勇治は富田哲之助指揮。慶應四年(1868)七月十三日、磐城平城にて戦死。墓は、葛岡霊園内の見瑞寺墓地内にある。

 

濱田家先祖代代之墓(濱田源五郎の墓)

 

 濱田源五郎は卒。明治元年(1868)九月十日、磐城椎木山にて戦死。墓石側面には二十八歳と記載されている。濱田源五郎と富田哲之助の墓は、妙心院墓地内にある。

 

富田家之墓(富田哲之助の墓)

 

 富田哲之助は小隊長。「幕末維新全殉難者名鑑」では慶應四年(1868)七月~九月、磐城口にて戦死とされている。墓石には没月日は七月十三日と記されている。

 

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