史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

朝日

2019年05月05日 | 三重県


旧東海道

(淨泉坊)


淨泉坊

 朝日駅を降りて南側に行くと、関西線に並行して旧東海道が走っている。旧東海道を桑名方面に北進すると、最初に出会うのが淨泉坊である。
 本堂脇に国学者橘守部が建てた、守部の父飯田長十郎元親の墓がある。墓碑によれば、飯田長十郎が亡くなったのは寛政八年(1796)。飯田長十郎は、この地方の伊勢国朝明郡小向村(現・朝日町小向)の大庄屋格であり、国学者谷川士清の弟子であった。


前郷長飯田長十郎元親之墓

(橘守部誕生地遺跡)
 淨泉坊の前を走る旧東海道を数分北上すると向い側の空き地に「橘守部誕生地遺跡」という案内板が建てられている。


橘守部誕生地遺跡

 橘守部は、平田篤胤、香川景樹、伴信友と並ぶ「天保の国学四大家」に数えられる、時代を代表する国学者である。大庄屋飯田長十郎の長男として天明元年(1781)に生まれた。十七歳で江戸に下り、学問を志した。二十九歳のとき、武蔵国葛飾郡内国府間村(現・埼玉県幸手市)に転居し、四十九歳で再び江戸に戻った。その時、地庵と号した。当時、国学者の多くが本居宣長の門下であったが、ほとんど独学で国学を学んだ。「稜威道別(いつのちわき)」「稜威言別(いつのころわき)」など多数の著書を残した。嘉永二年(1849)、六十九歳で没。東京向島の長命寺に墓がある。

(朝日町役場)


朝日町役場

 朝日町役場の一角に橘守部の生誕地碑がある。書は佐々木信綱。建立は昭和二十七年(1952)九月。「くちせぬ名を国つ学の道の上に残せる大人はこの里の生みし」、「時じくのかぐのこのみのかぐわしきたかき名仰がむ八千とせの後も」という橘守部作の二つの歌が刻まれている。


橘守部翁生誕之地碑

(小向神社)
 朝日町役場からJR関西線の線路を挟んだ反対側にある小向神社は、橘守部を祭神とする神社である。境内には、橘守部の歌碑と思われる石碑が二基あったが、流麗な草書でかかれていて素人には読み取れない。


小向神社

(金光寺)
 旧東海道に戻って、さらに北上して近鉄の線路を越えると蠅生(なお)という街に入る。ここに金光寺がある。金光寺は、橘守部が手習いに通ったという寺である。金光寺は、明治三年(1870)、住職淨海を最後に無住となり、現在に至っている。


金光寺
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「元老 西園寺公望」 伊藤... | トップ | 亀山 Ⅱ »

コメントを投稿

三重県」カテゴリの最新記事